映画「A.I.」は愛ではない

最近の映画の興行収益は前宣伝だけで決まってしまうのか?


 映画「A.I.」を見に行ってきた。  首都高速から見える渋谷駅前の巨大広告を一目見て惹かれ、 妻と「あれ見に行こう」とその場で決めたのだった。  あのロゴデザインにはそれほどのインパクトがあった。

 愛することをインプットされたコンピュータの話だというので、 愛をどうやって表現するのだろう?  愛のゆえにどれだけ相手に尽くすのだろう?  愛のゆえにどれだけ自分を変えてゆくのだろう?  ということをすごく楽しみにしていたのだが、中身をみてがっかり。  ロボットの少年は最後まで全く変化することなく、相手に求めるばかり。

 果たしてあれは愛と言うのだろうか、と思った。  私なりの定義ではあれは愛とは呼ばず、「執着心、愛着心」と呼ぶのであって 愛とは全然違うものである。  しかし、これを愛だと誤解している人って世の中には確かに多いよなー、と 映画の内容とは別の部分で考えさせられた。

 主人公のロボットが他のロボットを破壊するシーンが出て来る。  これって殺人じゃないのか?  自分の気持ちを主張するのであれば、相手にもそれがあると認めるべきでは?  しかし、作品中ではその罪に対する責任は一切問われないし、 話題にも取り上げられない。  これでいいのか?

 母親の行動にしてもどうにも説得力が無い。  彼女はあまりにも無責任すぎる。 夫の言いなりで発言力もなさ過ぎるし、実の子どもに対しても頭が上がらない。 彼女さえしっかりしていればあのような悲劇は起こらなかったのだ。  どうして彼女の行動は作品中で裁かれないのだろうか?  ロボットに対しての行動だから許されるとでもいうのか?  しかもあの程度の理由で。  現実の世の中では同じことを実の子供に対して行っている母親が多いではないか。 それを肯定する話なのか?!

 また作品中において、社会の人工知能に対する扱いがいい加減すぎる。  人工知能に対して妙に冷たいのだ。  実際にあのようなことにはなりはしないだろう。  妙に違和感を受ける社会が描写されていた。

 現代の世の中の考え方が本当に良く表れている映画だなーと思った。  映画中に表現されているのではなく、映画の作り自体がそうなのである。

 全く考えさせる部分のない映画。 感動は全然しなかった。  別の部分で考えさせられただけだった。

 スピルバーグ監督は単に綺麗な映画を作りたかっただけなのだろうか?  ピノキオ物語を現代風にアレンジしたかっただけなのか?  同じテーマなら、別に人工知能でなくても出来たろうに。  題名に騙された。

 人工知能を扱った作品なら、「2010年」の方がよっぽどいい。  私はあの、人工知能HALとチャンドラ博士との会話シーンで感動して泣いたのだ。 (変わってますか?)  あれこそ愛ではないか。  「A.I.」は故キューブリック監督が長年温めていた作品だということで、 きっと、人工知能の社会の中での意味とか、そういうものにも触れてくれるだろうと 楽しみにしていたのだ。


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