「サトリ」に勝てるか?

心を読まれることがこれほどの苦痛だとは・・・


妖怪サトリ

 皆さんは「サトリ」という妖怪を知っているだろうか?  昔、水木しげるの妖怪辞典を読んで怖くなったことがある。  馬の顔のようなものから一本だけ手が生えていて、木をつかんでぶら下がっている挿絵であった。  やつは無害だが(食われるという話もあるらしい)、何よりも恐ろしい。  こっちの考えていることをすべて知られてしまうのである。  だから倒す方法はない。

 (訂正)最近、水木しげるの「日本妖怪大全」という本を手に入れたが、 私の記憶していた挿絵は「サトリ」ではなく「サガリ」であった。  サトリはまったく別の姿で描かれている。  子供の頃にありがちな勘違いか、読んだ本がいい加減な編集をしていたのかは不明である。  (2007年8月追記)

 本当にそうなのか?  やつが動く速度より早く動くことが出来れば、例え心を読まれていても勝てるのではないだろうか。

 その本を読んだ小学生の頃は、まさか自分が、本当にその恐怖に出会うとは思ってもいなかった。  しかし、その時の疑問を試してみる絶好の機会でもあった。  私の出会ったそいつは人の姿をしており、私の友人でもあったのだ。


「サトラレ」の気持ち

 笹岡の俺に対する「いじめ」はエスカレートしていた。  別に暴力を振るうわけでもない。  陰湿ないたずらを繰り返すわけでもない。  ただ、何か機会がある度に「心を読むぞ」と脅すのである。

 心を読まれることがこれほど恐ろしいものだとは思いもしなかった。  それは読まれて困ることを俺が考えているからだ。  誰にも知られたくない思いを内に持っていることが原因なのだろう。  私はまだ聖者には程遠かった。  心を開いていつでも誰にでも見せられるほどの準備は出来ていなかったのだ。

 彼は「心を読むぞ」と言っては、読み始める振りをするけれども 実際には読みはしなかった。  私が余りにも嫌がって慌てふためいてのた打ち回るので、それを見て楽しんでいるのだった。
 「読むなら読め!」と堂々と開き直る選択はできなかった。  醜態をさらしてでも読まないでいてくれる方を望んでいたのだ。
 いつまでこの方法が通用するだろう・・・。

 「今度こそ読まれる!」と思う恐怖の瞬間、 私は、私の存在自体が丸裸にされる恥ずかしさを感じるのだ。  私を覆う肉体は何の意味をも持たずに存在するだけである。  私の内側は何の覆いもなくいつでも彼の前に存在する。  何をもってしても隠しようがない。  彼が目を開けさえすれば、私の存在は無抵抗に貫かれることになるのだ。  

 ああ、人々よ。  あなた方がこの苦しみを感じないで済むことを私は切に願う。  これが最後の審判の時に神の聖い目によって差し貫かれる時の苦しみなのだ。


悪あがき

 俺はやつに勝てないのだろうか?  最大の弱点を握られてしまっていた。  俺が何を隠しているのか、やつに知られてはならない。  最後の切り札まで読まれてしまう。  そして、最後の切り札が、実は「ブタ」であることさえ知られてしまう。

 絶望に近い感覚の中で俺は少しでも笹岡より優位に立つ方法は ないかと探り始めた。  やつより早く動けば! やつが俺の心を読むより先に行動すれば!

 心を読まれるより前に思考をめまぐるしく回転させて混乱を誘う方法は かつて試みて屈辱的な結果を招いた。  しかし、不意に攻撃すれば・・・。 「サトリ」を倒すにはこれしかない。

 別に笹岡を倒したかったのではない。  心を読まれることが八方塞がりだというわけではないことを確かめたかったのだ。  何でもいいから突破口を見つけたかったのだ。  ・・・これを悪あがきと言う。

 私は彼に一つの提案を持ちかけた。

 「今日の剣道の試合で勝負しよう。」

 「ん?」

 「笹岡が俺の心を読むのが早いか、俺が動くのが早いか確かめたい。」

 「!」 彼はにやりと笑って答えた。 「いいよ。 面白い。」

 あっけないほど簡単に話がついた。

 俺は体育の授業の時間が来るのを楽しみにした。  他の授業には何の楽しみもなかったし。

   (当時、唯一の楽しみは物理の授業だけだった。 しかも週にたったの3時間。)


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