LHC 実験とブラックホール

これだけ不安になるのは、情報不足のせいだと思うんだ。


 LHC がブラックホールの生成実験をするというので話題になっている。

 マスコミが大した時間を割くでもなしに、中途半端な解説をしているので、 不安を掻き立てられている人がかなり多いようである。

 そこらへんの疑問について、「Q アンド A」の形式で説明する事にしよう。  (そうすれば、後からどんどん追加できるからね。)

 あまり科学的に難しい話にならないようにしたいと思っている。


質問リスト
1. LHC って何?
2. ハドロンって何?
3. 何のためにブラックホールを作るの?
4. でもニュースではブラックホールのことばかり強調してるよ?
5. もしブラックホールが出来たらすごい力で吸い込まれないの?
6. ブラックホールが出来ても、ホーキング放射で一瞬で蒸発するから安心だって聞いたけど、 ホーキング放射ってまだ仮説でしょ? 本当に大丈夫なの?
7. ホーキング放射ってのが本当にあるとブラックホールが出来るから危ないって聞きましたけど。
8. ブラックホールは周囲の物質を吸い込んで、どんどん成長するんじゃないの?
9. 具体的にはどれくらいの時間で地球は吸い込まれるの?
10. 科学者の言う事が信じられないんだけど?
11. どういう原理でブラックホールができるの?
12. この実験で魔界への通路が開かれるってことはないの?
13. 今回の実験より宇宙線のエネルギーの方が高いと聞きました。
14. 科学者たちはどうして自分たちの好奇心と地球の運命を天秤にかけるようなことが出来るの?
15. ビッグバンを再現する実験だとか聞いて、めちゃくちゃ恐ろしいんですけど。
16. だけどビッグバン直後はあちこちに魔界への扉が開いていたかも知れないじゃないですか。
17. どうして実験結果が出るのに何年もかかるんですか。


1.LHC って何?

 Large Hadron Collider の略。  「どでかいハドロン衝突器」ってこと。  この「どでかい」っていうのは、ハドロンのことじゃなくて、装置のサイズの事。  Collider ってのは直訳すれば確かに衝突器ってことになるけど、 その意味は、「粒子を加速して正面衝突させる装置」ってことだな。  じゃあ、次に聞きたくなる質問はハドロンって何?ってなるだろう。  え、ならない?


2.ハドロンって何?

 粒子の分類の仕方には一杯あるのだけど、 クォークが集まって出来ている粒子をハドロンって呼ぶことにしている。  でも、そんなに特殊なもんでもない。  原子の中心には原子核ってのがあって、陽子と中性子で出来てる。  こいつらはどちらもハドロンだ。

 今回の実験では陽子を加速することもするのだけど、それだけじゃない。  鉛の原子核をまるごと加速することもできるし、実際、やるつもりだ。  鉛の原子核といえば、陽子が 82 個、中性子が 126個くらいの塊なので、とっても重い。  まさにハドロンの塊ってわけだ。


3.何のためにブラックホールを作るの?

 ここは良く聞いて欲しいんだが、 今回の実験の目的は、ブラックホールを作る事じゃないんだ。

 ひょっとしたら今回の実験でブラックホールが出来ちゃうかも知れないという理論を 唱えてる一派があって、まぁその理論はしっかりしている・・・みたい。  私にも難しくてよく分からないから確かな事は言えない。  でも理論だけなら他にもしっかりした理論は一杯あって、 本当に正しいのはどれであるかは実験で確かめてみないと誰にも分からない。

 で、LHC はその理論だけを確かめる為に作ったわけじゃない。  確かめたい事は他にも一杯ある。  「ブラックホール生成実験」なんてのは、 全体から見れば、おまけみたいなものに過ぎないのだ。


4.でもニュースではブラックホールのことばかり強調してるよ?

 私の個人的な意見だけど、 この実験は、人々の注目を引いて予算を獲得しやすくするための看板みたいなものだと 思ってる。  いや、もちろん、この実験に携わっている人は真面目にやってるはずだよ。  私もその結果にはとても期待している。

 ただちょっと毒が強すぎたようで、 マスコミなんかはしっかりそこに食らい付いてくれたわけだけど、 それ以外の、素人目にはあまり面白くない重大な実験については小さな扱いになってしまった。  ま、「一般市民の視点」での報道と言えば聞こえはいいのだけどね。  本当に重要なことを説明する努力を怠っているとも言える。

 ブラックホールの話ばかりが広がりすぎて、反対訴訟なんか起こされちゃった。  それがまたニュースになったりする。  新聞ネタとしては面白いだろうなぁ。  そういうわけだ。


5.もしブラックホールが出来たらすごい力で吸い込まれないの?

 いや、何も起きない。 本当に、どうともならない。

 例えば、もし私がブラックホールになったとしよう。  私の体重が 60 kg だから、それは質量 60 kg のブラックホールになるだけだ。  ブラックホールになったからといって、その引力は決して増えたりしない。  そのブラックホールからの引力は、相変わらず、60 kg の私が周囲に及ぼしている引力と同じである。  だから誰もその力に気付きはしないだろう。

 ましてや、今回のブラックホールは、もし出来たとしても、 陽子一個分の質量と似たり寄ったりのものだろう。  そんなものに誰が引き寄せられたりするものか。


6.ブラックホールが出来ても、ホーキング放射で一瞬で蒸発するから安心だって聞いたけど、  ホーキング放射ってまだ仮説でしょ? 本当に大丈夫なの?

 だから私は、ホーキング放射を持ち出して素人を説得するのには反対なんだ。

 確かに、ホーキング放射はまだ仮説だ。  もし今回の実験でブラックホールが出来て、一瞬でつぶれるところが観測できたら、 仮説じゃなくなるかも知れないけど、それはまだこれからのお楽しみだ。  でも仮説の中でも、かなり信憑性の高い仮説だと考えられている。

 だけど重要な事は、ホーキング放射があるから安全なんじゃない。  ホーキング放射がなくても安全なんだ。  ホーキング放射があれば、なおさら安全じゃないか。


7.ホーキング放射ってのが本当にあるとブラックホールが出来るから危ないって聞きましたけど。

 いや、まったく情報が交錯していますな。  そんなデタラメは忘れてください。


8.ブラックホールは周囲の物質を吸い込んで、どんどん成長するんじゃないの?

 それが、実に面白くない事に、気の遠くなるような時間がかかるのですわ。  ホーキング放射なんてものを唯一の安全の拠り所だと考えなくてもいいくらいに。

 ブラックホールは時空に開いた穴だと考える事が出来るけれど、 その穴が小さすぎて、なかなか入り込めないというわけ。

 でも、もしブラックホールが原子を貫いたら、その原子は吸い込まれるんじゃないかって?  いや、原子の中はかなりスカスカなんですよ。  それに原子程度の質量では、重力なんて無いに等しいから、 引っ張られて吸い込まれるなんてことも滅多にない。

 まぁ、次の話も参考にして。


9.具体的にはどれくらいの時間で地球は吸い込まれるの?

 今回のような原子くらいの大きさのブラックホールについては私は良く知らないけれど、 例えば、天文学者の福江純氏が計算してくれている次のような記事がある。

http://quasar.cc.osaka-kyoiku.ac.jp/~fukue/SF/00sfm1.pdf

 天文学で「マイクロブラックホール」といえば、 それは 10 億トンくらいのブラックホールのことである。  そういうのが宇宙にはあるかも知れないと言われている。  (参考までに、富士山の質量が約 1000 億トンだと推定されている。)  こんなに重くても、「マイクロ」なのだそうだ。

 なぜならその大きさは 100 万分の 1 ナノメートル。  それはだいたい、原子核と似たり寄ったりの大きさになるのかな。

 それでさえ、地球内部に落ちてから 2 倍に成長するまでに 1 億年以上かかるそうだ。


10.科学者の言う事が信じられないんだけど?

 えーっ!? じゃあ、ブラックホールも信じるなよー! と言いたい。  ブラックホールだって科学者が言い出したことじゃないか。  自分の目で見た事あんのか!

 まぁいいや。  科学者を信じられないのはその人だけのせいだとも限らないからな。  そういう雰囲気は確かにある。

 そもそも、科学者が言い始めたブラックホールは、 周囲のものを際限なく強力に引き寄せて吸い込むようなものじゃない。  ああいう恐ろしい描写は、SF やらアニメやらで、 ストーリーを面白くするために誇張したものだ。

 つまり、正体の全く違うものを、 同じ名前だというだけで、勝手に恐れていることになる。

 SF やアニメの描写の方が真実味があるっていうのなら、 メデューサやヴァンパイヤやハルヒみたいのが本当にいるかも知れないってことも 恐れた方がいいんじゃないだろうか?


11.どういう原理でブラックホールができるの?

 実は自分も詳しいことは良く分からないのだけど、 普通は、粒子を衝突させたくらいではブラックホールは出来ない。

 ブラックホールが出来るためには、色々と条件があって、 物体の持っている質量と角運動量によって、出来るかどうかが決まる。

 ところが最近話題の「この宇宙が実は 4 次元以上であって、 自分たちはそれを認識できていないだけだ」という理論が本当だとすると、 ごく狭い距離に限っては重力の強さが通常よりもかなり大きい可能性がある。  だとすると、ひょっとすると、ブラックホールが出来る条件を たまたま満たすような状態が生じるかもしれない。

 今回の実験装置は、その条件をギリギリ満たすくらいのパワーがあるので、 ひょっとしたらブラックホールが出来る可能性があるかも知れない、 というわけだ。

 絶対に出来るわけでもないし、出来なかったとしても、 その理論が間違っていたとは言い切れない。  その程度のものだと思って欲しい。


12.この実験で魔界への通路が開かれるってことはないの?

 多分、この質問は冗談だと思うけれど、 わざとまともに受け止めよう。

 科学者としてはこの可能性は笑い飛ばす事は出来ても、真っ向から否定はできないはずだ。  今までやったことがない事だから、何が起こるかは誰にも分からない。

 同様に、今まで誰も発音した事の無い音の組み合わせを声に出すと、 それがたまたま、古代に封印された魔法を発動する呪文である危険性がある。  危ないから新しい単語を作るのは禁止した方がいいかも知れない。


13.今回の実験より宇宙線のエネルギーの方が高いという話を聞きました。

 今回の実験で起こそうとしている反応は、 人間がやる実験としては今回が初めてだけれど、 自然はずっと前から同じことをやり続けている。

 宇宙からは、今回の実験のエネルギーをはるかに上回るエネルギーの粒子が 降り注いでいて、粒子の衝突はいつも起きている。  だから、もし危険な事があるとすれば、今までの地球の歴史の中ですでに起きているはずだ。

 今回なぜ同じ事を人工的にやる必要があるかといえば、 宇宙から来る粒子はどこに降って来るか分からないからだ。  センサーを仕掛けて待ち構えているのは非常に効率が悪い。  だから、狙った場所で反応を起こさせて、それを記録したいというわけだ。


14.科学者たちはどうして自分たちの好奇心と地球の運命を天秤にかけるようなことが出来るの?

 今まで説明したように、科学者たちは、今回の騒ぎをバカバカしいと思っている。  地球を巻き込む危険を冒すつもりなんて、最初から全くないのだ。


15.ビッグバンを再現する実験だとか聞いて、めちゃくちゃ恐ろしいんですけど。

 まぁ、気持ちは分かる。  しかしそういう報道を見るにつけて、 正しいニュアンスで物事を伝えるのは難しいなぁ、と思う。  新聞は人々の興味を引くように少々煽り気味の記事を書くのが仕事のようだし。

 確かに、ビッグバンの少し後と良く似た状態を再び作り出す実験だとは言える。  しかし、別にビッグバンを再び起こそうってわけじゃない。  分かるかなぁ。 この違い。

 例えば、ビンの中の空気を抜いて、富士山頂と同じ状態を作り出す実験をしようとしてるとする。  これに対して、「あいつら、火山を噴火させて、そこに富士山を新たに作り出すつもりなのか」と 大騒ぎするのはおかしな話だろう?


16.だけどビッグバン直後はあちこちに魔界への扉が開いていたかも知れないじゃないですか。

 それは「危険な事」を意味する比喩かな?  そうだな・・・。  それは可能性として否定は出来ない。  実際にその時代を見た事がないから。  やってみないと何が起きるかは分からない。

 だけど、上の方で話したように、宇宙からはもっと強力な粒子が飛び込んできている。  危険な事があるとしたら、もうとっくに起きていてもいいはずだ。

 何が起きるかは分からないというところが大事だ。  分かっていたら、やる意味があまりないからね。  危険じゃないけど、何か、見た事もない不思議で素敵な事が起きるのを、 科学者たちは期待しているわけだ。


17.どうして実験結果が出るのに何年もかかるんですか。

 今回の実験は、一回だけ衝突させてそれで終わりってわけじゃない。  何百万回、何千万回、それ以上の衝突を繰り返して、 コンピュータの助けを借りて、何か珍しい事が起きていないかを調べるわけだ。

 素粒子の反応というのは確率で起きる。  だから今回の実験で起こる反応のほとんどは、 今までの低エネルギーの衝突実験でも良く起きている、 珍しくも何ともない、つまらない反応ばかりだろう。

 データを蓄積して、解析して、珍しい、今まで見た事もない反応がないかを探して、 統計を取る必要があるわけだ。  中には、数ヶ月の観測だけで、「見込みなし」と判断できるものもあるし、 本当に大量のデータを調べてみないと結論が出せないものもある。

 もしブラックホールができるにしても、 そういう大量のつまらないデータの中から、苦労して証拠を探し出さないといけない。


 さて、せっかく私がこのような、ちょっとふざけたような文章を(少しは苦労して)作って公開したのだが、 どうやらそのほんの数日後に、 日本の真面目な加速器研究機関である KEK が、 本家 CERN が公表している「LHC の安全性について」の日本語訳を完成させて公開して下さったようである。

 もちろんそちらを読んで下さった方が、より正確な情報に触れられるだろう。


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