ニュートンの3つの法則

力学でこれを説明しないのは失礼だな。

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彼の足元にも及ばない

 現代は過去に例を見ないほど多くの知識を容易に手に入れることが出来るようになった。そしてその知識は洗練されている。そのせいか、現代人が歴史上もっとも知性的であるという錯覚に陥っている人々が多いことだろう。

 私も今の土台を築いてくれたという理由で過去の偉人に感謝はしていたが、尊敬するほどの理由を最近まで見出せないでいた。ニュートンについても昔の人ということで軽く見ていたところがある。これらはすべて私の勉強不足による。

 ニュートンの業績は思うよりもはるかに大きいものである。それだけではない。彼の定式化は今見ても見事なほどであり、ひょっとして彼が現代に蘇ったとしても、天才として活躍できるのではないか、とさえ思う。


3 つの法則

 ニュートンは自身が作り出した力学体系を 3 つの法則としてまとめ上げた。これらは現代的に洗練した形のものであって、初めからこれほど分かり易く表現されていたわけではないし、厳密でない部分もあった。しかし私は先駆者のあら捜しをするのは良く思わない。過去の誤りを正すのは大切な仕事ではあるが、鬼の首を取ったかのように騒ぎ立てるのは正しい態度とは思わない。


なぜ法則を 3 つに分けたか

 上の 3 法則はここまでの私の説明にもすでに出てきたものである。ニュートンは運動量という概念を多分私より知っていたはずだが、それを基本法則としては使わなかった。そこには色々な事情がある。

 まず第 1 法則から見てみよう。第 2 法則で\( F = 0 \)だとすれば、加速度は 0 であることが分かるので、第 1 法則は不要であるかのように思われる。しかしこの法則は別名、「慣性系の定義」とも呼ばれており、続く第 2、第 3 法則が成り立つ舞台設定をしている重要な部分である。

 当時は「力」というものについてギリシャのアリストテレスの時代からの考え方が強く残っていた。槍を投げた時、遠くまで飛んでいくのは力が働いているからであり、力は働き続けている。そして力が完全に消え失せたところで落下する、という考えである。この考え方には非常に共感できる。私自身も小学生の頃までは向かいの畑に棒を投げながら同じ考え方をしていたのである。学研の伝記漫画でガリレオガリレイの話を読んだときには相当驚いた。何もしていないのに物体がどこまでも動き続けるなんて、あり得ない!!

 つまり第 1 法則でこれまでの世界観を打ち砕く必要があった。いや、これはすでにガリレイがやったことなのだが、やはり念を押しておく必要がある。だが第 1 法則の意義はそれだけではない。

 我々は電車の中で、電車が動き始めるときに体が倒れそうになるのを感じる。直接体に力が働いていないのに体が加速を受ける。また回転する台の上に乗っていると遠心力を感じる。遠心力は誰かが自分を引っ張っているわけではなく、そう感じるだけである。これらの見かけの力を感じない立場を「慣性系」と呼ぶ。

 第 1 法則は慣性系を説明しているのであって、それが大前提。それ以外の状況では続く第 2、第 3 法則をそのまま適用すべきではない、ということを言っているのである。

 第 2 法則は、加速度を基にした「力の定義」。アリストテレス的な見方を否定した以上、それに代わる定義が必要だ。第 1 法則がなければ、この定義はあいまいなものになるであろう。力がどれだけ加わった時にどれだけの加速を受けるか、という説明であるような気もするが、科学思想史の視点から分析した場合、やはりこれは力の定義という意味が強い。

 ニュートンは天体の運動や我々が地球に引き付けられている力を「万有引力」として統一的な理解ができるようにまとめ上げた人であるから、力を中心とした世界観を表に出してまとめるのはごく自然なやり方であろう。また運動方程式を数式ではっきり表現した意味は大きい。

 第 3 法則は、思想的には彼のオリジナルである。すでに定義された力というものが持つ性質を簡潔に言い表している。慣性系以外で感じる「見かけの力」はこの法則を満たしていない。第 1 法則がいかに大切かが分かるというものだ。