私が運動量を擁護する理由

「実在の哲学」と同じような話。 同時に作った原稿なのです。

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 「力」は運動量を交換する現象を見て、人間が作り出した概念的なものに過ぎない、というのが私の主張である。そんな事は物理学者なら当然のように知っている。量子力学では「運動量の交換」の話しか出てこない。素粒子論では、「電磁気力」「弱い力」「強い力」「重力」の 4 つの力について議論されるが、その中身は運動量がどのように交換されるか、という計算だけである。力が何ニュートンかといった計算はしない。

 しかし、よくよく考えてみれば、「運動量」だって、人間が便利なように作り出した概念であって、質量と速度をかけたものである。その「質量」だって、物が地球に引かれる力を基準に人間が作り出した概念である。「速度」だって、時間ごとの物体の位置の変化を言い換えたものに過ぎない。「時間」というものも、物体の位置が刻々と変化する様子を見て人間が「時間が流れている」と解釈しただけかもしれない。

 一体、基準は何なのだろう?本当に存在する「量」というものはあるのだろうか?物理は、見方を変えれば色んな解釈が出来る。例えば相対論では、時間も長さも基準としては頼りないもので、「光の速さ」のみが頼れる基準であると物理を解釈し直して、便利な概念を作り出した。

 我々は、基準となるもの、「本物」を求めているのだ。それさえ分かれば、後のものはそれだけで説明できてしまうたった一つのものを。

 それが「運動量」であるかどうかは分からない。しかし、光を含むこの世の粒子の全てが「運動量」を持っていることは興味深い。「質量」を持たない光でさえも「運動量」を持っているのだ。質量と速度をかけて定義したはずのものなのに、質量のない光さえ、運動量を持っているとは!

 これが、私が「運動量」をより基本であると考えたい理由である。ただ無邪気にそう言うだけで、深くは考えていない。物理には他にも議論すべき色々な問題があって、色々な角度から検証すべきなのだ。

 光が運動量を持つというのは何も新しい発見ではない。19 世紀には分かっていたことで、「電磁気学」から導かれる成果である。また「運動量」の定義は相対論によって拡張される。単に質量と速度をかけたものというのは古い定義である。

 しかし、「運動量」が全てだとは言い切れない。この世には「運動量」を持たない「何か」が沢山あるけれども、我々が「運動量」を持たないものを感じることが出来ない仕組みになっているだけかも知れない。運動量は何かの結果かも知れないのだ。