重水素

本筋からは離れるが、昔学んで感心したことを詰め込む。

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重水素の発見

 中性子発見のインパクトは大きかった。

 水素の原子番号は 1 である。その原子核は陽子が 1 個だけなので質量数は 1 である。次の原子番号 2 番はヘリウムである。その原子核は 2 個の陽子と 2 個の中性子から出来ているので質量数は 4 である。そこで当然のように生じる疑問だが、質量数が 2 や 3 の原子核というのは存在していないのだろうか?

 その疑問の一部は早くも中性子発見と同じ年に解決した。質量数が 2 であるような「水素の同位体」が発見されたのである。いや、単に発見されたというだけでなく、通常の水素から分離して取り出すことに成功したのだった。

 つまり、その原子核は陽子と中性子の計 2 個の粒子がひっついて出来ているということになる。性質は通常の水素とほとんど変わらないが、質量はほぼ 2 倍である。 いや実はこの「質量が 2 倍」ということだけで色々と違っている部分があるのだが、それは後で書こう。そのようなものが存在するだろうという予測はあったのだが、あまりに少なすぎて簡単な方法では見つからなかったのだった。ではどうやったのか?もしそういうものがあるとすれば、質量が大きい分だけ沸点が高いはずだ。蒸発しないで後まで残る割合が多いに違いない。そこに目をつけて、マイナス 250 ℃ 近い液体水素の蒸発を利用して根気よく濃縮したのである。

 こうして集めた「重い水素」にはあたかも新元素であるかのように「デューテリウム」という名が付けられた。語源はギリシャ語で 2 番目を意味する「deuteros」である。日本語では「重水素」と訳されている。その原子核は安定な核種であることもはっきりした。今ではそれは地球上の水素(水分子として存在しているのがほとんどだが)の中に、平均して 0.015 % だけ混じって存在していることが分かっている。

 また、この重水素の原子核には特別に「デューテロン」という呼び名がある。まるで一塊の粒子としての扱いだ。核反応では良く登場する粒子なのでこういう名前がついているのは便利である。日本語訳では「重水素核」である。

 思い返してみれば陽子(プロトン)の語源もギリシャ語で 1 番目を意味する「protos」から来ているので、このような命名には統一感があると言えるだろう。


三重水素

 さらに後になって質量数 3 の水素の同位体も発見される。この核は一つの陽子と二つの中性子とで出来ている。これはギリシャ語で 3 番目を意味する「tritos」から、「トライトン(トリトン)」と名付けられた。しかしギリシャ神話の神の名や海王星の衛星の名などとかぶるためか、あまり耳にしない。その代わりに物質名のような「トリチウム」という呼び名の方がよく使われる。この辺りの命名には統一感があるが、使われ方には統一感がないように思える。日本語ではそのままカタカナで表記されることもあれば「三重水素」と訳される場合もある。トライトンについては「三重水素核」とか「トリチウム核」とか訳せば意味が伝わるだろう。

 トリチウムは安定な核種ではなく、12.3 年の半減期でベータ崩壊し、ヘリウム 3 に変化してしまう。

\[ \begin{align*} t \ \longrightarrow \ ^{3}\text{He} \ + \ e^{-} \ +\ \bar{\nu} \end{align*} \]
 天然にはほとんど存在しないが、宇宙からの放射線による反応でわずかに生成されるので、全く無いわけではない。しかし実験室での人工的な核反応によって頻繁に生成されるので、研究者にとっては割りと馴染みの物質である。

 これはいわゆる放射性物質であり、半減期が短いので勢い良く崩壊してゆくわけだが、その点だけに注目して過度に恐れることはない。なぜならこの時に放射されるベータ線のエネルギーは最大でも 18.6 keV であり、テレビのブラウン管の中で加速される電子と変わらぬくらいしかないからである。適切な方法で簡単に防御できる。

 ただ安心もできない。化学的には水素と同じような性質を持っており、水素分子の状態では金属中にでもどこにでも容易に入り込む。水素は原子のサイズが小さいため、金属中に溶けるように染み込むのである。また人体にも取り込まれやすいので、吸い込んだり飲み込んだりすれば内部被曝の危険もある。やはり管理には気が抜けないのである。


化学的な性質

 重水素も三重水素も、原子核の周りをたった一個きりの電子が回っているという点では、通常の水素と構造は何ら変わりない。しかしそれで化学的な性質が全く同じかというと、そうではない。水素は単独の原子で存在するわけではなく、分子を作る。それだけでも、回転のエネルギーや振動のエネルギーに質量の影響が出て、結合エネルギーに違いが出たりするのである。

 このように同位体の質量の違いが化学的な性質に与える影響を「同位体効果」と呼ぶ。他の元素の場合でもそのような効果があるのだが、特に重水素や三重水素の場合には質量が 2 倍や 3 倍も違うということから、その効果ははっきり現れている。化学変化の反応速度が大きく違ったり、温度に対する化学変化の特性に変化が出たりする。複雑な反応の場合にはそれだけの違いで反応の内容が大きく変わってしまったりもする。

 そうは言っても、電子配置にはほとんど違いはないので、さまざまな分子の中で通常の水素が占める位置に重水素が代わりとして入ることができる。


重水

 典型的な例は水分子\( \text{H}_2 \text{O} \)である。水分子の分子量は 18 だが、\( \text{H} \)の部分を重水素で置き換えれば分子量 20 の水ができあがる。難しいことじゃない。重水素と酸素を混ぜて燃やせばいいだけだ。このような水を「重水」と呼ぶ。英語では「heavy water」である。重水の分子を\( \text{D}_2 \text{O} \)という記号で表したりする。

 重水の見た目は普通の水と変わらない。密度や粘度が少し違うだけだ。触ってみてもよく分からない。昔は飲んでも平気だと聞いたものだが、先ほど話した理由により、大量の重水を飲んで体内の組織として取り込まれると、生体内の化学反応に支障を来たし、生命に危険が及ぶ可能性もあるそうだ。実際、重水の中では魚類は生きられないらしい。

 先の大戦中に原子核の研究のために重水が大変に貴重だった頃、重水を飲み込んで国外脱出を図った研究者の話なんかを聞いたことがあり、飲んでも平気だと説明されたものだが、このような行為にはやはり問題があったようだ。

 私も重水を良く扱ったが、どちらにしても高価すぎて飲む勇気はなかった。現代では決して手に届かないような価格のものではない。記憶によれば 100 cc で 10,000 円くらいだった。先ほど調べてみたら、1 cc あたり 25 円ほどで製造できるようだ。技術の進歩で以前より値下がりしたか、末端価格では今でも同じくらいの値段なのかも知れない。

 重水と区別するために、通常の水のことを「軽水」と呼ぶことがある。原子炉の種類を表す「軽水炉」という言葉を聞いたことがあるだろう。

 ところで、重水が生体内の化学反応に悪影響を及ぼす可能性があるというのなら、重水を取り出した後の水はさぞかし健康に良いだろうと考えて「超軽水」「重水素減少水」などと称して売り出されていたりする。なるほど、その発想はなかった。しかしその真偽は不明である。逆に重水を飲んで健康になろうと主張している人もいるくらいだ。