場の理論

新・馬鹿な男の話。

[前の記事へ]  [素粒子論の目次へ]  [次の記事へ]


場の理論にも色々ある

 さまざまな物理現象を、空間の性質に帰着して説明しようと試みる理論のことを「場の理論」と呼ぶ。

 そういう意味では電磁場を扱う電磁気学や、重力場を扱う一般相対性理論も場の理論の一種ではある。しかしそれらは「古典的な場の理論」あるいは「場の古典論」などと呼ばれている。ここで言う「古典的」というのは「今ではもう古臭くて使い物にならなくなった」というような意味ではなく、単に「量子論的ではない」というくらいの意味である。

 『古典的(クラシック)』の対義語は?と質問されたなら『現代的(モダン)』と答えるのが普通の人だ。  普通でない人は『量子的』と答える。  それは物理学者だ。  ・・・という笑い話があるほどである。
 一方、これから説明しようとしているのは、「量子論的な場の理論」あるいは「場の量子論」あるいはもっと短く「量子場理論」などと呼ばれているものである。単に「場の理論」というときには、この「量子論的な場の理論」のことを指している事が多い。

 さて「量子場の理論」にはさらに二通りあって、「相対論的な」量子場の理論と「非相対論的な」量子場の理論に分かれる。素粒子論で扱うのは前者である。一方、後者は物性分野で良く使われるようになってきた。

 前者は数学的に複雑になるのだが、後者は前者から都合よく貰ってきた結果を使うことが多く、それだけ学んだのでは納得できないことが多い。それだから量子場の理論を学ぶ人は、たとえ必要ではないとしても、腹を括って相対論的な場の理論から入った方が効率が良いのではないか、という意見もある。

 今回の目的は素粒子論なので、迷わず「相対論的な場の理論」から入ることにしよう。

 ここまでの話は、まだ状況を知らない読者にとって大変役に立つと思う。タイトルに「場の理論」と付いた教科書を選ぶ時には、その内容が以上のどれにあたるのかを良く見極める必要がある。

 私はこれらの背景を知らなかったので、とりあえず場の理論の教科書を手に取ってページをめくってみて訳が分からず、「まずは古典場の理論を完璧にマスターしないと理解できないものだろうか」とか、さんざん道に迷った。しかし古典場だって易しくはない。電磁気学や相対論のことをわざわざ「古典場」などと表現する人の書いた教科書はなおさらだ。

 「これは古臭くて未完成の理論だから難しく書かれてるのだろうか」「もうこんなものは諦めていきなり量子場の理論を学んでみたらいいのではないか」と、何も分かってないままにさらに沢山の本を買った。しかし簡単そうに見える本を選んだために、その多くが非相対論的な場の理論について書かれた本だった。そして沢山の本を買った理由は、その多くで納得の行かないことが出てきて、その教科書で勉強を続けることに挫折してしまったからである。しかし相対論的な場の理論の教科書であっても、和書ではなかなか親切なものが見つからず、洋書に頼らなければならないのが現実だ。

 私はこれから、親切な日本語による解説の第一号を目指すつもりで頑張ろうと思う。


量子場の簡単な歴史

 第 1 部でも軽く触れたが、場の理論というのは比較的早い時期に誕生している。量子力学の建設がおよそ 1923 - 1928 年頃に成されたが、この終わり頃には場の理論に関係する議論がもう始まっている。

 その直後の 1930 年代の初めにはすでに発散の問題に突き当たって、それから長らく停滞していたが、これについては 1948 年頃の繰り込み理論によってほぼ解決に至る。ファインマンによる経路積分の方法もこの頃の発明である。

 新粒子が次々と発見されるようになるのはこれより後の事であるから、場の理論の基礎的な部分については特に最近の実験的事実を知らなくても何とかなりそうだ。第 1 部の内容は(これを書いた時点では)まだ完成していないが、勇気を出してチャレンジしてみることにしよう。


方針に悩む

 とは言うものの、どこから話を始めたものやら・・・。以前にも何度か素粒子論の解説を書こうとチャレンジしたことがある。多くの教科書で抽象的な議論からスタートしているのに反発して、私は具体的なイメージから入るやり方を試みたのであった。最初はうまく行くように思えたが、ある程度進んだところで、この方法はうまく行かないと気付かされたのである。

 物理学の古典的な分野では、まず具体的なイメージを示してから数学を駆使してそれを表現するというやり方で解説してきた。もちろん初めから抽象的なところから入るという方法もあるのだが、私はそれを嫌って避けてきたのだった。

 量子力学の解説でも私は具体的なイメージを先に示すやり方をしている。しかしすでに見たように、「数学的内容は同じであっても解釈は一通りではない」ことを見てきただろう。それはハイゼンベルク描像とシュレーディンガー描像の差であったり、多世界解釈とコペンハーゲン解釈の差のことである。具体的だと思える見方は色々とあるが、この辺りまで来るとどれが本物だとは言えないということだ。

 素粒子論でも数学を何とか解釈して具体的な形を無理やり描くことはできるのだが、残念ながら奇妙すぎて、いきなりそのような作り物を受け入れる正当な理由が見い出せないのである。数式に手を加えるたびにモデルも作り直さなくてはならないし、ちょっと効率的ではない。それどころか、場合によってはかなりこじつけ臭くなる。それも嫌なのだ。

 というわけで、今回は数式を使った計器飛行を敢行することにした。ほとんど雲の中だが、時折雲間から具体的な景色が見えるので、その時にはちゃんと案内しよう。

 何だか沼地を歩いて行くのにも似ている気がする。量子力学の辺りはまだ水が浅かったので、時々無茶なジャンプをすることで何とか足を濡らさずに進んで行くことができた。しかしこの辺りまで来ると水の上に出ている地面が少なすぎる。水に浸かるのを覚悟して、とにかくまっすぐ進んだ方が効率がいいようだ。