完全規格直交系

ブラ・ケット記法を理解するための数学的基礎。

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級数展開

 あらゆる波形が三角関数の組み合わせで表現できてしまうという話を知っているだろうか。例えば、次のような無限個の関数の集まり(関数系)を考える。
\[ \begin{align*} \{\ 1,\ \sin x,\ \cos x,\ \sin 2x,\ \cos 2x,\ \sin 3x,\ \cos 3x, \cdots\ \} \end{align*} \]
 このそれぞれの関数に定数を掛けて全てを足し合わせるだけでどんな波形でも作り出せてしまうわけだ。詳しく知りたい人は「フーリエ級数」と呼ばれる分野を学ぶといい。どっちにしても理系の学生にとっては必須科目だ。

 ただ非常に残念なことに、この話は\( -\pi \leqq x \leqq \pi \)の範囲でしか成り立たない。周期関数をいくら重ね合わせたところで同じ周期で繰り返す波形しか作り出せないのは当然のことだ。

 似たような性質を持つ関数系は他にもある。例えばルジャンドル関数と呼ばれる関数を無限に集めたものを使えば上と同じ話が成り立つのだが、やはりこの場合も\( -1 \leqq x \leqq 1 \)の範囲に限られている。変数変換をしてスケールをいじってやれば範囲を引き伸ばすことは出来ようが、無限に伸ばすわけにも行くまい。

 \( -\infty \leqq x \leqq \infty \)の範囲であらゆる形の関数を和の形で表すことの出来る万能な関数系は存在しないのだろうか?世の中はそんなに甘くはない。無限の範囲でどんな形の関数でも表せるようにするためには飛び飛びの関数の和ではなく、積分計算が必要になってくるのである。詳しく知りたい人は「フーリエ変換」を学ぶといいだろう。

 実はこのことはシュレーディンガー方程式を解く時の固有値の問題と深く関わっている。

 粒子が束縛状態にない場合の波動関数は無限遠で 0 にならず、運動量やエネルギーの値は連続的なあらゆる値が許されることになる。この状態を表すためには、あらゆる値に対応する関数の連続的な和、すなわち積分計算をしてやらなければならない。

 一方、有限の箱の中に閉じ込められたり、周期的な境界条件を加えられた粒子の運動量やエネルギーは飛び飛びの値しか取れなくなる。この場合には、それぞれの状態に属する飛び飛びの無限個の状態を足し合わせるだけであらゆる状態が表現できてしまうわけだ。だから和の形で表せる関数の範囲が限られているとしても量子力学の計算で困ることはないのである。詳しく知りたければ「スツルム・リウビユ問題」を調べるといい。微分方程式の解と境界条件についての数学的な話だ。

 これからの説明は運動量やエネルギーがそういう離散的な値を取る場合にのみ適用できる話であることを念頭に置いて聞いてもらいたい。連続的な場合については後で補足しよう。

 多くの教科書ではいきなり抽象的な話から始めて、「むしろそちらを基本原理とする」という具合に持っていくわけだが、こういう場合分けを避けようとしているのだろうか。しかしここまで別に難しい話でもないだろう?


完全系

 三角関数やルジャンドル関数などのような性質を持った関数は他にもあるが、具体的な形を書くのは面倒であるので、
\[ \begin{align*} \{\ \phi\sub{0}(x),\ \phi\sub{1}(x),\ \phi\sub{2}(x),\ \cdots\ \} \end{align*} \]
のように簡単に表現してひとまとめに議論することにしよう。この表現を使ってここまでの話をまとめれば、つまり、適用範囲は限られているがどのような関数でも
\[ \begin{align*} f(x)\ &=\ a\sub{0}\phi\sub{0}(x) + a\sub{1}\phi\sub{1}(x) + a\sub{2}\phi\sub{2}(x) + \cdots \\ &=\ \sum_{n=0}^{\infty} a_n\phi_n(x) \end{align*} \]
のように無限の項に展開して表現できてしまうということだ。このような性質を持つ関数系を「完全系」と呼ぶ。先ほどの三角関数の集まりも\( -\pi \leqq x \leqq \pi \)の範囲で完全系だと言える。

 あまりにもサラリと説明してしまったが、このことは非常に感動してもらって構わない。今回の話の核心部分であり、過去に多くの学者たちも感動したところである。・・・しかし感動している暇はない。先へ進むぞ。

 無限の関数が集まっているとは言え、一つでも抜けると他の項はその代わりにはなれず、表現に致命的な制限を受けることになる。三角関数の例を使えば、もし sin 関数だけしかない場合には奇関数しか表現できないことになるし、もし初めの 1 がなかったら平均値が 0 になるような関数しか表現できないといったことになってしまう。

 このことが何を意味するかと言えば、つまり、ある関数\( f(x) \)を表すとき、ひとたび関数系が決まってしまえば、それぞれの項の係数はただ一通りに決まってしまうということである。そこで、もはや関数\( f(x) \)をわざわざ関数の和の形で書かずとも、以下のように係数だけを並べる形で表現してやってもいいのではなかろうか。

\[ \begin{align*} (\ a\sub{0},\ a\sub{1},\ a\sub{2},\ \cdots ,\ a_n,\ \cdots \ ) \end{align*} \]
 どんな関数系を選んだかさえ知っていればこれだけの情報からいつでも元の関数を復元できるのだから。

 ああ、何という事!この表現は無限次元のベクトルそのものではないか。これはすなわち関数は無限次元のベクトルと等価だということを意味しているのである。


直交系

 さらに面白い性質を持つ関数系がある。上に挙げた三角関数系もルジャンドル関数系もこれから説明するような性質を持っている。

 関数系の中から異なる二つの関数を選んで掛け合わせたものを完全系の適用範囲と同じ範囲で積分してやると、なんと全て 0 になるというのである。しかし同じ関数を二つ選んで計算した場合には 0 にはならない。

\[ \begin{align*} \int \phi_m(x)\phi_n(x) \diff x \ &=\ 0\ (m \neq n ) \\ &>\ 0\ ( m = n ) \end{align*} \]
 ベクトルでも似たような話があるだろう。直交する 2 つのベクトルの内積を取ったものは 0 になるのであった。そこでこのような性質を持つ関数系をこの例えに倣って「直交系」と呼ぶ。また上の積分計算は「関数の内積」と呼ばれている。

 直交する関数を無限に集めた系は「完全系」になるのである。しかし「完全系」が全てこの性質を持っているわけではないことに注意しておこう。


規格直交系

 「直交系」の定義によれば同じ関数どうしの内積の値は 0 でなければ何でも良かった。同一の関数の積なのだから複素関数を考えるのでない限りは結果が負になる心配は要らない。

 さて「直交系」の内、その中からどの関数を選んで、自分自身との内積を計算しようとも結果が 1 になるようなものを「規格直交系」と呼ぶ。

\[ \begin{align*} \int \phi_m(x)\phi_n(x) \diff x \ &=\ 0\ (m \neq n ) \\ &=\ 1\ ( m = n ) \end{align*} \]
 これは難しい条件ではない。先ほどの三角関数の例は「規格直交系」ではないが、そうなるようにちょっと係数をつけてやれば「規格直交系」にしてやることが出来る。この操作を「規格化」と呼ぶ。

 「完全規格直交関数系」というのは空間に例えれば、「互いに直交する単位ベクトルの組」に非常に良く似た概念である。出てくる名前はどれもカッコいいが、そんなに難しい概念ではないだろう?

 関数系を規格化しておくことで後々の計算が非常に楽になるという利点がある。今回はそれを体験するところまでやって終わることにしよう。


係数の求め方

 関数は完全規格直交関数によって展開してベクトルのように表現できることが分かった。では、そのベクトルの各成分はどうやったら求められるだろうか。ここまでの話を応用してやればいい。もうすでに答えは出ているようなものだ。

 例えば\( \phi\sub{2}(x) \)の頭につくべき係数\( a\sub{2} \)は次のような計算で求められる。

\[ \begin{align*} a\sub{2}\ =\ \int f(x)\, \phi\sub{2}(x) \diff x \end{align*} \]
 なぜだか分かるだろうか。それは、
\[ \begin{align*} f(x)\ &=\ a\sub{0}\phi\sub{0}(x) + a\sub{1}\phi\sub{1}(x) + a\sub{2}\phi\sub{2}(x) + \cdots \end{align*} \]
であるとして、この式を上の積分の中に代入してみればいい。全ての項に\( \phi\sub{2}(x) \)をかけて積分すると、\( \int a\sub{2}\, \phi\sub{2}(x)\, \phi\sub{2}(x) \diff x \)以外の項はすべて関数の直交性によって消えてしまうことだろう。そしてさらにこの項も、関数が規格化されているので係数である\( a\sub{2} \)だけが残るというわけだ。

 さあ、準備はここまでだ。今回の話は数学的なものであって、物理法則とはあまり関係がない。しかし量子力学はこの道具を使うことで分かりやすく記述されるのである。

 自然界が数学で記述できることに対して言い知れぬ感動を覚えるかも知れないが、量子力学の基礎となる微分方程式の解がそういう性質を持っているだけの話だ、と冷淡に受け止めることもできる。まぁ、どちらにしても興味深い話であることは確かだ。