粒子性の正体

ええ、確かに、私の考えは異端的だと良く言われますよ。

[
前の記事へ]  [量子力学の目次へ]  [次の記事へ]


軌道の概念を忘れろ

 前回は、波動関数の重ね合わせを使って、粒子性を説明できないかと考えてみた。しかし粒子に良く似た一箇所に集中した波束を作っても、シュレーディンガー方程式による制限によって徐々に形が崩れてしまってうまく行かないのだった。だが、諦めないでもう少し考えてみよう。

 そもそも量子力学には粒子の軌道という概念が無い。観測した時に粒子がどこに見出されるか、ということだけが問題になるのであって、それは確率で決まるのである。

 我々の頭の中には「粒子は軌道に沿って連続的に進む」ものだという思い込みがある。これは我々の日常の経験のせいだ。目に見えるマクロな物体を調べている時には、常に物体に光が当たり、空気分子が当たり、ほぼ連続的に観測をし続けているのと変わらないので、物体は位置を確定した状態で進む。あたかも物体が連続的に移動しているかのように錯覚しているだけなのだ。

 軌道など考えなくても、粒子の位置の期待値の変化の様子が古典力学に従ってさえいれば何も問題はない。粒子は観測するたびにいつもその期待値の近辺に見出されることだろう。少々のずれはあっても、多数の観測の平均を取れば気にならない。これで古典力学とも辻褄が合う。前に説明したエーレンフェストの定理はこのことを示す大切な概念だったのである。


波束の収縮

 粒子の軌道を心配する必要がない以上、波束がいつまでもその形を保っていることは必要ではない。徐々に波形は崩れ、粒子の位置の不確定さは増して行くことになるだろうが、再び観測をした瞬間に、観測の精度の幅と同程度の広がりを持った波束が再び形成してくれればいいのである。

 そんな都合のいいことがなぜか起こるのである。伝統的な「確率解釈」では波動関数について何と言っていただろう。「観測する前の波動関数は様々な状態が重なった状態を表しているが、観測の瞬間に、観測されなかった状態は全て消え失せ、観測された状態に確定する」と。これは上で言ったことの別表現に過ぎない。所謂、「波束の収縮」と呼ばれる問題であって、量子力学はなぜこのような現象が起こるかについてはいまだに何も説明できていない。

 たとえ粒子の位置を表す波が全宇宙に広がっていようとも、粒子が観測にかかった瞬間にはその波は観測された一点に集まってくる。波がもし実在だと考えるならこれは大問題である。観測のその瞬間、実在であるその波にどんな現象が起きてそうなったのかを説明しなくてはならない。しかし「それは実在などではなく、粒子を見出すただの確率に過ぎないのだ」と言っておけば取敢えずはこの問題から逃げることが出来る。だから、物質は「波動」としての性質を持つが「粒子」としても観測される、などというよく分からない表現になるわけだ。

 ところで、誰が粒子を見ただろう?粒子が「一点」にあるのを観察したことがあるだろうか?精度よく観察すれば、あたかも一点にあるように見えるだろうが、どんな観測をしようとも観測精度には限界がある。その幅の程度の広がりの中のどこかにあることが明らかになるだけである。つまり、その幅程度の波を見ているのと同じことなのではないか。

 さあ、我々が粒子と呼んできたものについてもう一度思いをめぐらしてみて欲しい。それらは本当に「在る」のだろうか。二重スリットの実験で電子がスクリーンに当たってポツッと光を放つ時、それは何を見たのか?粒子そのものか?電子の波が、スクリーン上にある一つの原子の広がりの範囲に捕らえられたという結果を見ただけではないのか。

 確かに波束が収縮する仕組みは分からない。しかしそれこそが「粒子」というものがあたかも実在するかのように演出している正体ではないだろうか。


放射線の観測

 霧箱というのを知っているだろうか?普通の日本人に聞けば「桐箱」を思い浮かべるかも知れない。しかし物理関係者ならまず間違いなく「霧箱」の方を先に思い出すはずだ。

 これは放射線を目で見るための道具である。1927 年にウィルソン氏によって発明された。これはまさに量子力学の建設期のことであり、白熱した議論がとりあえず一段落ついたくらいのことであった。

 透明容器の中の圧力を急激に下げることで過飽和状態という霧の出来やすい状態を作り出す。何か少しでもきっかけがあれば、気体が液体に変われる状態である。(熱力学のページ・過冷却の項を参照)そこに電荷を持った放射線が突き抜けるとイオン化された分子が凝集して霧となり、その軌跡が飛行機雲のように白い筋となって現れるのである。

 この装置は中学生、高校生でも工作できる程度のものであり、作り方はネット上で検索すればすぐに見付かる。圧力を下げる方法を使った場合、その瞬間しか過飽和状態を保つことができないが、アルコールとドライアイスを使って連続的に観測ができる方法がよく紹介されているはずだ。

 さて、この白い筋が一体何なのかということで物理学者たちが少しの間だけもめたことがある。蒸気がイオン化して凝集して霧になって云々なんてことは彼らにとって大した問題じゃなかったのだが、観測の瞬間に確率的にしか位置が特定できないはずの粒子が、なぜ連続した一本の軌跡を残して突き進むのか、という部分が問題だった。量子力学には「軌道」という概念を持ち込むべきでない、ということに皆が納得し始めた頃にこのような発見があったのだ。

 ほどなくして、この現象は量子力学と矛盾を起こすことなく説明された。

 我々は何を見ているのだろう。素粒子が霧箱の中を駆け抜ける時、その白い軌跡は粒子そのものだろうか?多数の原子と反応するたびに位置をその原子程度の範囲に確定しつつ、許される運動量の不確定さの範囲で突き進む波の仕業を間接的に見ているのではないか。


粒子は在る

 人というのは騙されやすいものだ。ここまでの話にすっかり納得してしまった人はこれからの生活でも気をつけた方がいい。幾つかの理由を挙げてここまでの議論に反対することができる。

 上ではあたかも粒子という実在が現実には存在しないかのような書き方をして来たが、我々は粒子という存在を確かに見ているのである。そもそも電子というのはどこから生まれた概念だったか。

 ミリカン氏は油の霧を帯電させたものを外部から電場を掛けて重力と空気抵抗とに釣り合わせることで等速運動で落下させ、その様子を顕微鏡で観察することで電荷の量を測った。それは必ずある量の整数倍になっているのだった。素電荷量の発見である。(1913)電荷はある一定量を持った粒でできているのを確かに確認した!

 また電子が磁場中を運動する時にローレンツ力を受けて円運動することから、電荷と質量の比が求められる。それによって電子は一定の質量を持った粒であることが分かった!我々は確かに粒子としての電子の存在を見ているのだ。

 さあ、もう一度問おう。先の波動についての議論で、このような確かな粒子性まで説明できるというのだろうか。物質は雲のような存在ではない。確かに一定の物理量を持った塊として存在する。


新しい理論への準備

 そろそろ気付いた方がいい。そもそもこれまで「1 粒子のシュレーディンガー方程式」しか考えて来なかったのが問題なのではないか。この式は「1 粒子」のためだけのものであって、これを使っている時点で「粒子性」が仮定されていたのである。

 その波動で粒子の形を作って喜んでいることにどれほどの意味があるだろう。この式からどんな形の波動が導かれようとも、それは「1 粒子」の波動でしかない。

 ここで考え方を変えよう。波動関数が空間全体に広がっていようと、一点に集中していようと、どんな形であっても、それは 1 粒子であることに変わりないのだ。物理学者が考える粒子とは、大きさの無い一点のことではない。またどこにあろうと関係ない。そんなことにはこだわってはいない。数えることのできる存在を粒子と呼んでいるだけなのだ。

注:正確にはこの概念を表すために「量子」という言葉がわざわざあるわけだが、科学者の日常会話では「粒子」と「量子」はあまり区別されないで使われることが多い。

 初心者向けの科学雑誌で説明されているような絵に描いた粒のイメージは本質ではないし、正しい理解を与えるものでもない。存在の数、反応の数を「数えられること」だけが粒子性の本質なのである。どうして誰もそういう説明をしてあげないのだろう。ほら、科学者たちの難解な説明が見えるようになってきただろう?

 科学者たちはとっくに未来へ進んでいるのに、一般の人々は 80 年も昔の考え方をいつまでもそのままの形で教えられているのが現状だ。

 アインシュタインは、光電効果を説明した時、「光は粒子だ」とは決して言っていないそうだ。光の粒のことを光子と名付けたのも後の人であって彼ではない。彼はこう言った。「光は粒子のように振る舞う」この微妙な表現に込められた彼の意図が汲み取れるだろうか。

 参考:世界物理年日本委員会メールマガジン6号2005/3/18 コラム『光量子は粒子ではない』

 我々には新しい理論が必要だ。多数の粒子の存在を同時に扱える理論。これまで見てきた現象を矛盾無く説明できるのなら、ビーズのような粒が一直線に突き進むイメージなんてどこかに捨ててしまって構わない。

 量子力学が「場の理論」へと発展する動機の一つがここに表れている。