パウリ表現

今回は適度に手抜き。
最後まで読まないと誤解する可能性がありますよ。

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 ディラック方程式に出てくる 4 つの未知係数を求める事が今回のテーマである。条件は以下の通り。
\[ \begin{align*} \alpha_i^2 \ &=\ 1 \tag{1} \\ \alpha_i \alpha_j \ &=\ - \alpha_j \alpha_i \tag{2} \end{align*} \]
 今回の話に都合がいいように前回とは少し書き方を変えてある。\( \alpha_i \)というのは\( ( \beta, \alpha_x, \alpha_y, \alpha_z ) \)の事である。単純な数値ではこれらの条件を満たすものはありえず、行列を考えるなら条件を満たすものがあるだろうというところまでは前回話した。

 まず、どの係数行列も 2 乗したら単位行列になるということなので、その固有値は 1 か -1 のいずれかしかないと言える。なぜなら、

\[ \begin{align*} \alpha\, \psi \ &=\ \lambda \psi \\ \alpha^2 \psi \ &=\ \lambda^2 \psi \\ \therefore\ \lambda \ &=\ \pm 1 \end{align*} \]
となるからである。固有値が ±1 のいずれかでしかないような行列のうちで最もシンプルなものと言えば次のような対角行列である。これを\( \beta \)としよう。
\[ \begin{align*} \beta \ =\ \left ( \begin{array}{cccccc} 1 & & & & & \\ & \ddots & & & 0 & \\ & & 1 & & & \\ & & &\!\!\!-1 & & \\ & 0 & & & \ddots & \\ & & & & &\!\!\!-1 \end{array} \right ) \end{align*} \]
 まだ\( \beta \)が何次の行列になるのか今の段階では分からないし、1 と -1 が何個ずつ入るべきかも分からない。

 解を探す範囲を狭めるために、もっと有用なヒントはないだろうか。実はもう一つ、面白い性質が隠されているのである。それは行列\( \alpha_i \)の対角和(トレース)は必ず 0 になるということである。

\[ \begin{align*} \mathrm{tr}(\alpha_i) \ =\ 0 \end{align*} \]
 なぜこのことが成り立つかというと、次のような計算ができるからである。
\[ \begin{align*} \mathrm{tr}(\alpha_i) \ &=\ \mathrm{tr}(\alpha_i \beta^2 ) \\ &=\ \mathrm{tr}(\alpha_i \beta \cdot \beta) \\ &=\ \mathrm{tr}(\beta \cdot \alpha_i \beta) \\ &=\ \mathrm{tr}(\beta \cdot [-\beta \alpha_i] ) \\ &=\ -\mathrm{tr}(\beta^2 \alpha_i) \\ &=\ -\mathrm{tr}(\alpha_i) \end{align*} \]
 分かり易いように\( \alpha \)\( \beta \)を使ってみただけであり、\( \alpha \)\( \beta \)は対等であることを再度強調しておく。2 行目から 3 行目では積の対角和は積の順序を入れ替えても変化しないという性質を使った。(分かっている人にはこの注意は要らないかと思うが、この性質は 3 つ以上の積の時には勝手にどれでも順序を入れ替えて良いわけではなく、2 つの部分に分けてそれらを入れ替えるときにだけ成り立っているので気をつけること。)

 対角和が必ず 0 になるということは、固有値は必ず 1 と -1 とが同数なければならないことを意味する。このことから、求めようとしている係数行列は「必ず偶数次でなければならない」ということも言えるのである。

 線形代数から遠のいている読者は、ここら辺りで幾つかの事が気になり始めて、先を読むどころではなくなっているかもしれない。実は私がこの記事を書いている途中で気になった事なのだが、それを以下にメモしておこう。

 正則な行列(つまり逆行列を持つ行列のこと)\( U \)を使って
\[ \begin{align*} \alpha \ =\ U^{-1} \beta U \end{align*} \]
という変換をしても\( \alpha \)\( \beta \)と同じ固有値を持つ。(しかし固有ベクトルは変化する。)これを「相似変換」と呼ぶ。

 今回はたまたま\( \beta \)をシンプルな対角行列として選ぶことにしたが、\( \beta \)を元にして相似変換してやることで、同じ固有値を持つ行列がいくらでも作れるということである。

 固有値の和はトレース(対角和)に等しい。
これは対角行列でなくても成り立つ。

 先ほど固有値は 1 と -1 が同数なければならないと話したが、それは\( \beta \)を単純な形に選んだことによって言えるのではなく、他の係数行列についても同じ事が言えるのである。

 ところで条件式 (2) に出てくる行列を全て同じ正則行列 U で相似変換してやっても元と同じ条件 (2) が成り立っている。つまり、係数が一通りだけでも求まってしまえば、それらを任意の正則行列\( U \)で相似変換したものも、同様にディラック方程式の係数として使えることになるわけだ。こうして、解は一通りではないと言える。

 どの係数も対等である事から、求まったそれぞれの係数を入れ替えてやってもいいだろう。ここでちょっと疑問なのだが、その入れ替えは相似変換によって実現できるのだろうか。もし求まった係数がどれも対角化可能であるというのなら、それらはどれも\( \beta \)と同じ形に変換できるということなので、行けそうな気がする。対角化可能な条件とは何だっただろう?

 さらに他にも一つ疑問がある。ある係数を相似変換で対角化できたとして\( \beta \)の形になったとしよう。そのとき、残りの 3 つの係数を同じ行列で変換したものは、元あった 3 つの係数\( \alpha_i \)と同じ組み合わせになるのだろうか。

 この疑問は次のように言い換えられるかも知れない。今は\( \beta \)を対角行列だとおいて話を進めようとしているが、こう決めたことで、他の係数の形は一意に定まることになるだろうか。

 数学に詳しければきっと一発で分かる事なんだろうなぁと思う。こういうところでつまづいていると先へ進めないので、後で考える事にしよう。


とりあえず 2 次から調査

 解は偶数次の行列でなければならないことが分かったので、まずは 2 次の行列を仮定することから始めてみよう。結論から言えばこれはうまく行かないのである。

 今回の条件を満たすような 2 次の行列というのは実はかなり前にすでに登場しているのである。「スピンとは何か」の記事の中に出てきたパウリ行列がまさにそれだ。それらは 2 乗すると単位行列になるし、何という偶然か、行列の積を入れ替えると符号が逆転するという条件さえ満たしている。そればかりか、この中の\( \hat{\sigma}_z \)というのが\( \beta \)と同じ形式になってさえいるのだ。それらは全部で 3 組の行列なのだった。今回欲しいのは 4 組の行列である。ああ、何ということ・・・一つ足りない!

 これらに 4 つ目を新たに追加することはできるだろうか。2 次の行列というのは 4 つの成分を持つから、4 つの自由度がある。つまり、4 つの独立な行列の線形結合によってあらゆる行列が表せるようになっている。パウリ行列はそれぞれ独立であるから、これらと独立なものがもう一つあるはずだ。パウリ行列の成分をよく見てみよう。これらの線形結合では作り出せない種類の行列があることに気付くだろう。それは単位行列である。

 しかし単位行列が条件 (2) を満たさないのは明らかである。また、パウリ行列はどれも固有値として 1 と -1 を含むのに、単位行列の固有値は 1 のみであるという点でも良くない。

 ここの議論が分かりにくいと思う人がいるかもしれない。今求めようとしている 4 つの行列はなぜそれぞれ独立でないといけないと考えているのだろうか。それは条件を見て考えて欲しい。もしどれか一つが別の行列の和から出来ていたとしたら、条件を満たせないことが分かるはずだ。

 このように 2 次の行列の中には望むような 4 つの組み合わせは見出せないのである。


では 4 次はどうだ

 偶数次しか許されないので 2 次がだめなら次は 4 次である。互いに独立で、かつ 2 乗すると単位行列になるような行列の組を探そう。それらには全て、固有値として 1 と -1 が 2 個ずつ含まれていることも必要である。

 条件は厳しそうだが、今度は成分が 16 もあるので、逆に望む以上の組が得られてしまうのではないかという心配もある。まあ、そういう心配は必要なだけの解が見付かった後ですればいい。

 まず、次のような行列を含むように解を得ようと決心することから始める。よっぽどの理由がない限り、こんなシンプルなものを外したくはない。

\[ \begin{align*} \beta \ =\ \left ( \begin{array}{cc|cc} 1 & 0 & 0 & 0 \\[4pt] 0 & 1 & 0 & 0 \\[4pt] \hline 0 & 0 &\!\!-1 & 0 \\[4pt] 0 & 0 & 0 &\!\!\!-1 \end{array} \right ) \end{align*} \]
 ここで 4 つの部分に分けて書いたが、左上は単位行列、右下は単位行列に -1 を掛けたものである。そのようにとらえると以降の話は楽に検算できる。この行列との積を取ったときに条件 (2) を満たすような行列は、次のような形式であればいい。
\[ \begin{align*} \left( \begin{array}{cc|cc} 0 & 0 & \ \ \ \raise{-2.5ex} A \raise{2.5ex} \!\!\!\! & \ \\[-4pt] 0 & 0 & \ & \ \\ \hline \ \ \ \raise{-2.5ex} B \raise{2.5ex} \!\!\!\! & \ & 0 & 0 \\[-4pt] \ & \ & 0 & 0 \end{array} \right) \end{align*} \]
 ここで使った\( A \)\( B \)というのは 2 次の行列を略記したものである。ちょっと手間をかければ、この形式以外では条件 (2) を満たさないことも分かる。つまりこれ以外考えなくていいわけだ。選択肢が減るのは思考の負担が減ってありがたい。

 しかしこの形式の行列同士の積もまた条件 (2) を満たしていないといけないのである。そのための条件を調べてやるとなかなか複雑な事になってしまう。それで、\( A \)\( B \)を同じものだとして簡略化してやろう。

\[ \begin{align*} \left( \begin{array}{cc} 0 & A \\ A & 0 \\ \end{array} \right) \end{align*} \]
 2 行 2 列のような書き方がしてあるが、0 や\( A \)と書いたのはそれぞれ2次の行列を意味している。この形式同士の積が条件を満たすためには、2 次の行列 A が条件 (1) (2) を満たしていればいいことが分かる。そのような関係を持つ 2 行 2 列の行列と言えば、やはりパウリ行列を使う他はないだろう。

 いや、実はパウリ行列でなくてもいい。パウリ行列をそれぞれ相似変換して作った 3 つの行列の組は同じ条件を満たすのだから。ここで、先ほどの疑問の一つが解決した。\( \beta \)を固定しても、残りの 3 つの行列は一意には定まらないことが分かった。しかし、今は最も簡単な形式のものとして、パウリ行列を使わせてもらうとしよう。つまり、

\[ \begin{align*} \beta \ =\ \left( \begin{array}{cc} 1 & 0 \\ 0 &-1 \\ \end{array} \right) \ \ \ \ , \ \ \ \ \alpha_i \ =\ \left( \begin{array}{cc} 0 & \sigma_i \\ \sigma_i & 0 \\ \end{array} \right) \end{align*} \]
という 4 つの組がディラック方程式の係数としての条件を満たす係数の一例となる事が分かるのである。これを「パウリ表現」と呼ぶ。これは前回すでに紹介したものと同じである。


他に解はどれくらいあるのか

 もう物理はそっちのけで、色んな事が気になり始めた。一組の解が求まったので、それを相似変換したものも同じく解の資格を持つだろうことは分かる。また、係数の一つを定めてみてもまだ自由度が残されていることも分かった。よって解の組み合わせは無数にあるのだ、と言われてもまだどこか納得できない。

 相似変換でたどり着けないような組み合わせはないのだろうか。また、すでに求まった 4 つの行列のどれとも条件 (2) が成り立つような、第 5 の行列はないのだろうか。あるとすればそういうのは幾つまであるのだろう。

 とても気になるのでやってみた。面倒な連立方程式を地道に解いて第 5 の行列を見つけた。

\[ \begin{align*} \left( \begin{array}{cccc} 0 & 0& i& 0 \\[4pt] 0 & 0& 0& i \\[4pt] \!\!\!\!-i& 0& 0& 0 \\[4pt] 0 &\!\!\!-i& 0& 0 \end{array} \right ) \end{align*} \]
 あるいはこれにマイナスを掛けたものでもいい。計算に間違いがなければ、第 6 の行列はないと思われる。一つでも見付かって良かった。これで見付からなかったら「では 6 次の行列の場合はどうなんだ?」と気になって仕方なかっただろう。

 まだ全ての疑問が晴れたわけではないが、これくらいにしておこう。全てを書いてしまうのが良いとは思えない。これ以上は私もまだ書けないというのが本当の理由だ。分かっていたら喜んで書いてしまっていたであろう。こういう取っ付きやすいパズル的なことを考えているうちに、数学のありがたさが分かったり、興味が出てきたりするものだ。


相似変換とユニタリ変換

 ところで今回の話では相似変換ばかりが出てきているが、これはユニタリ変換とよく似た形の変換である。ユニタリ変換は任意の正則行列ではなくユニタリ行列を使うのであるから、相似変換の一種ではあるが、かなり制限のある変換である。

 量子力学ではここまでずっとユニタリ変換ばかりを使ってきた。パウリ行列もスピンの話のところではユニタリ変換を使って変換するという話になっていた。それなのになぜ今回だけは相似変換でいいのだろう。

 実は重要な条件があったのにも関わらず、全く触れないで来てしまったのである。私もうっかりしていた。それは「ディラックの係数はエルミート行列であるべき」という点だ。前回の方程式を見直してもらえれば分かるだろう。

\[ \begin{align*} i\hbar \pdif{}{t} \phi \ =\ ( c\, \Vec{\alpha} \cdot \hat{\Vec{p}} \ +\ \beta m c^2 )\, \phi \end{align*} \]
 右辺のカッコの中がハミルトニアンであり、固有値が実数であるためにこれがエルミート行列でなければならないのである。いや、この説明は正確ではない。固有値が実数であるべきというだけならば、エルミート行列である必要はないのだから。

 量子力学でユニタリ変換がよく使われるのは、波動関数の内積が変換によって変化しない事を保証するためであった。それではなぜ演算子はエルミートでなければならないのだっただろうか。さあ、意外なところで曖昧な知識が試される。

 ユニタリ変換で対角化できる保証を得るためか、波動関数が演算子の固有関数となっているべきだからか、異なる固有値に属する固有関数が直交するためか・・・。一体どう説明するのが最も適切だろうか。最近私は必要以上に細かく説明してしまう傾向を反省しているので、こういう(考える手掛かりが幾らでもありそうな)事柄については読者のために残しておく事にしよう。

 数学に気を取られていたが、我々は物理を考えていたのだった。パウリ表現も、第 5 の行列もちゃんとエルミートの形で導かれており、ここまでの話に変更を加える必要は無さそうだ。ただし、「相似変換」とした部分は全て「ユニタリ変換」としておかないと、係数がエルミートであるという条件が満たせないことになる。