質量は錯覚だ

一般相対論流に言えば、質量は実在ではない。

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重力の理由

 巨大な天体の周りでは光でさえその進路を曲げられる。巨大な質量によって、その周りの時空が曲げられて、光はその曲がった時空の中をまっすぐに進むからである。しかしそれを傍から見れば「光が重力に引かれた」と見えるであろう。一般相対論によれば、光が重力に引かれるのも物質が重力に引かれるのも全く同じ理由である。光も物質も「曲がった時空をまっすぐに進んでいる」だけである。

 この時空の曲がりを作り出しているのは何も巨大な物体だけに限らない。そこにある、エネルギーや運動量を持つ全ての物が、空間の曲がりを作り出しているのである。物体 A と物体 B が互いに重力によって引かれる時、A が作った重力場に B が引かれているのではなく、A と B が作った時空の歪みの中を A と B がともにまっすぐ進んだ結果としてA と B が互いに引き合っているように見えるのである。

 相対性理論では重力によって運動が変化する仕組みを説明するのに、二つの物体の間で「運動量の交換」が行われるといった概念を使っていないわけだ。相対性理論と量子力学を統一する上で面倒なことになっている原因の一つはここにある。


光にも質量がある?!

 光もエネルギー(あるいは運動量)を持っているため、その周囲の空間を曲げていることになる。つまり、光と光の間にもやはり引力は存在するわけである。実際には光の持つエネルギーは極めて小さいためにそのような効果を観測するのは無理であろう。

 それでも光も重力的効果を持つことが言えるのだから、これを「光にも質量がある」と表現してもいいのではないだろうか。特殊相対性理論では「エネルギーは質量と等価である」とのことだったので、光はそのエネルギーに相当するだけの質量を持っていると考えるのはどうだろうか。質量を持たない光でさえ重力に引かれるというのはどうにも理解しがたいものだが、こうすれば光が重力によって天体に「落ちてゆく」こともすんなり理解できる。

 しかし残念ながらそのような表現は正確ではない。運動エネルギーを含む全エネルギーを質量に換算した値は「相対論的質量」と呼ばれ、かつては広く用いられていた概念であった。一般向けの相対論の解説では今でも「速度が光速に近付くと質量は増大する」という説明をしてこの概念を使っているのがよく見られる。しかしこの「相対論的質量」の考え方は相対性理論の本質を理解する上で誤解を生むので今では使われなくなってきている。

 なぜ光が質量を持つと考えるのが正しくないのだろうか。

 ニュートン力学では重力の原因は質量だけにあるとしている。しかし一方、相対論では、重力の源は「エネルギーと運動量」であって、これらが時空を歪める現象を重力と言っているに過ぎないのだと説明する。一般相対性理論にとって重力は錯覚に過ぎないのである。

 ニュートン力学の結果と相対論の導く結果はエネルギーが低い場合(正確に言えば、重力が弱い、時間的に変化しない、速度が光速に比べて小さい場合)には一致しているが、エネルギーが高くなるにつれてズレが出てくる。そうなると、どちらの結果が正しいかということを検証しなくてはならないのだが、水星の近日点移動などの現象を調べてみると、相対論の結果の方が現実を正しく表していることが分かった。エネルギーと運動量を考慮に入れた考え方の方が正しかったのである。

 これで分かっただろうか。光が重力に影響を与えるからといって、これをわざわざ質量などという古い概念に換算してニュートン力学の考え方を適用しようとすると、いずれ考えが破綻してしまうのである。質量は本質ではないのだ。

 では一般相対性理論でいうところの質量とは何かといえば、単に物体が静止しているときのエネルギーを表すだけの数値に過ぎないことになる。つまり、質量でさえただの錯覚に過ぎないのだ。