光時計

時間だって実在ではない。

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時間の概念も消してしまえ

 力学のページでいろいろと考えていくうちに、エネルギーという概念が実は「作られたもの」であって存在の本質を表すものではないのではないかと考え始めることになった。それ以来、このエネルギーの概念を物理の基本的な体系から取り払うことは出来ないだろうか、と大それたことを考えるようになった。

 しかし、エネルギーを体系から取り払うことには大きな問題がある。エネルギーだけでは話が済まなくなるからである。

 私の嫌いな「抽象化」を推し進めた学問である解析力学の結果から、エネルギーと時間という二つの量は形式上、互いに密接に関わりあっている事が分かる。位置(空間座標)と運動量も同様な関係にあるのだが、この関係を「互いに正準共役である」と表現する。

 「共役」というのは、本来は「共軛」という字を書いたのだが、漢字の使用制限によりあまり意味を含まない簡単な漢字が代わりに使われるようになってしまった。軛という字は「くびき」を意味する。すなわち頚木(首木)である。昔、家畜を使って畑を耕していたときに複数の家畜の首をつないで互いに離れないようにしていた道具のことである。

 正準共役と言うと学問的な響きがあるが、簡単に言ってしまえば「離れられない正しいペア」というくらいの意味である。(しかし学問的意味は深いので馬鹿にしてはいけない。)この関係はそのまま量子力学にも応用されており、「不確定性関係」と呼ばれている。一方を厳密に測定すれば他方が定まらないという量子力学の重要な原理である。

 話を元に戻そう。つまり、エネルギーの概念を葬り去るということは、正準共役である時間の概念をも道連れにするということなのである。物理の体系から時間の概念を取っ払うなんて、そんなことが出来るのだろうか?

 実は私は初めからこのことを頭に入れていたのである。これまでコラムの中で「時間も実在ではない」とほのめかすことを書いたり、「相対論において時間と空間を同等に扱うのは私の哲学上気に入らない」などと書いたりしてきたが、ここに来てようやくこの話が出来るわけだ。そう、私は以前から時間の概念をも物理の体系から取っ払ってしまおうと企んでいたのである。


光時計

 アインシュタインが相対論の説明をするときに好んで使ったと言われる「光時計」の話をしよう。つまり、使い古されたアイデアだということである。物理を学ぶ人々は大抵知っている話であって、私のオリジナルなアイデアであると誇るつもりはない。その証拠にインターネットで「光時計」というキーワードで検索してやると、やさしい相対論の解説のページに行き当たり、その中で次に説明するような図がいくつも見つかることであろう。

 まず、鏡を平行に向かい合わせて置いておく。そして、その間に光を反射させる。すると、もし鏡が本当に平行ならば光はいつまでも反射を続けるだろう。これは理想的な話であって、こんなことをしても光はすぐに減衰してしまう。しかし、ここではそんなことは問題ではないのだ。

 特に向かい合わせた鏡でなくても構わない。一方に光源を用意しておき、鏡に向かって光をあてて、受光素子でその光が反射して来たことを確認したら再び光源から次の光パルスを飛ばしてやればよい。このような装置を作ることで、光を一定の周期で振動させることが出来るであろう。この振動の周期を数えることで私たちは時計を作ることが出来る。

 さて、このような仕組みの時計を装備したロケットを宇宙へ飛ばそう。私たちはこの宇宙船の内部でどのようなことが起こっていると考えるだろうか?

 光時計を載せたロケットが猛烈な勢いで進んでいるので、我々には光が斜め向きに反射しているように見えることであろう。いや、実際には見えないが、そう考えないではいられない。

 しかし、待てよ。つまり、光は斜めに進む分だけ、長い距離を移動していることになる。どんな立場の人から見ても光は同じ速さで進むというのが相対性理論の大前提であった。ということは、ロケットの中では光がこの装置の間を振動するのにより長い時間がかかるのではないだろうか。しかし、ロケットの中の人から見れば光時計は常に正常に動いており、時計の中の光はまっすぐに振動しているわけだ。

 ロケットの外から見ている人はこう考える。「ロケットの中の人は光時計の振動の周期が遅れていることに気付いていない。これをどう考えればいいかと言えば、すなわち、ロケットの中の光時計が遅れているだけでなく、 ロケットの中の時間そのものが遅れているということではないか。


時間は錯覚だ

 この光時計の考え方をちょっと応用してやることにしよう。つまり、我々はこの光時計の中を光が往復する回数を数えてそれを時間だと解釈しているだけなのだと考えるのである。

 しかし、我々の身の回りに光時計はあるだろうか?我々は光時計を使っているだろうか?誰がこの振動の回数を数えていると言うのだろうか?

 ここで、物質が光から出来ているというモデルが役に立つのである。このモデルでは、物質は光そのものであって、光がひとところで振動している姿こそ物質の正体であると考えるのであった。すなわち、我々の周りにある全ての物質が光時計なのである。

 そして物質間の運動量のやり取りが全てこの振動のタイミングに合わせて行われているとしたらどうであろうか。全てのものが光時計のタイミングに合わせて動くのである。素粒子の寿命も、放射性原子の崩壊も、粒子の衝突も、化学反応の速度も、人間の脳細胞の活動も。つまり、我々は知らず知らずのうちに光時計を使い、それに合わせて生活しているのである。

 こう考えれば時間を神秘的なものとして特別視することは無くなる。光が物質内で振動する回数、それこそが時間の正体だと考えることが出来るわけだ。


誤解しないでもらいたいこと

 最近の人は余りにせっかちで、全体を読もうとしないから困る。一部に怪しげなことが書いてあるというだけで、すぐさま全体が間違っていると速断してしまう。あるいはその逆に、自分の頭でろくに考えもせずにすべて無批判に受け入れてしまうのはさらに困りものだ。

 どこが間違っていて、どこが合っているのか。作者はわざとやっているのか、それとも気付いていないだけなのか。わざとやっているとすれば何か意図があるのか?

 そのようなことを考えながら私を観察して楽しんでいる人はこのサイトの目的を理解していると言える。

 私は一つの考え方を提案しているだけであって、上の考え方が正しいのだ!と主張しているわけではない。そもそも「物質が光から出来ている」というモデルはこの時点ではまったく証明されてもいないただの仮定に過ぎないではないか。言葉を変えれば、私の妄想に過ぎないということだ。

 すでに気付いている人もいることであろう。先にネタを明かしてしまうと、私はこれからの話で、この考え方の弱点を攻撃することで相対論の本質に近付こうとしているのである。