過熱と過冷却

熱力学を身近に感じる話。

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過熱

 水が沸騰して勢いよく蒸気に変化するためには、水の中に小さな蒸気の泡が存在している必要がある。水分子は水中にぽっかり空いた「空間」へ向かって蒸発するからだ。もし水中に泡がなければ、水は水面から蒸発を続けるだけであり、非常に静かに事が進むだろう。

 何事にもまずは小さなきっかけが必要だ。水分子はある温度を超えたからといって勝手に水中のあちこちで気体に変わるわけではない。水中に初めの小さな泡を作るためにはかなりのエネルギーが必要だからである。なぜだろうか。

 泡を作るということは、分子がぎっしり詰まったところに突如分子の希薄な部分を作るということだ。周りからすぐに潰されてしまうに違いない。しかしその圧力に打ち勝つのが「沸騰」というものではなかったか。それくらいの障害は当然乗り越えられるはずだ。その通り、この圧力については大して問題にはならない。(巷の説明はこの点で不正確なものが多い。)

 水と蒸気の境界が新たにできるということは、その境目にある分子にとっては重大な変化である。今まで周りから分子間の引力で同じように引っ張られていたのに、片側の分子密度だけが希薄になってしまう。つまり一方にだけ強く引っ張られるようになってしまうのだ。分子は蒸気の側へ飛び出しにくくなってしまうことになる。しかしこれも問題ではない。この効果は化学ポテンシャルに折り込み済みである。そもそも水面では常にこの状態だ。

 化学ポテンシャルの計算で考慮されなかったのは、泡が膨らむ時に、このような境界の面積が増えるということである。新たな境界を作るためには、分子を他の分子から引き剥がさなければならないということだ。そのために必要なエネルギーを「表面エネルギー」と呼ぶ。これは泡の表面積に比例する。この余分に必要になるエネルギーを誰が賄うのだろう。

 沸点ちょうどの場合には、分子にそんな余裕はない。しかし沸点より温度が高くなっていれば、蒸発に使った以上に余ったエネルギーをそのために回すことが出来る。つまり、沸点より幾分か温度が高くなって、このエネルギーを賄えるくらいでないと沸騰は始まらないということになるわけだ。

 ところで、球の表面積は半径の 2 乗に比例するが、体積は 3 乗に比例することを思い出そう。泡の半径が大きくなればなるほど、同じ数の分子が蒸発しても表面積の増え方はそれほど大きくはならないようになってゆく。つまり 1 分子あたりが余分に負担するエネルギーが小さくて済むのである。初めから大きな泡があれば、沸点をほんのごくわずかに上回るだけで、泡を大きくするためのエネルギーが簡単に賄えるのである。

 風船を膨らますのと似たようなものだ。初めは難しい。少し空気を入れるにもゴムを大きく押し広げないといけない。しかし一度膨らんでしまえばこっちのものだ。どんどん楽になる。

 十分に大きな泡が無い場合には水の温度が沸点を超えていても沸騰は始まらない。沸騰が始まるのに最低限必要な泡の半径を「臨界半径」と呼ぶ。温度が高くなるほど臨界半径は小さくなってゆくということだ。

 ところで、いつまで経っても十分に大きな泡が出来なかったらどうなるだろう。水を静かに熱して行って、大きな泡が出来るようなショックが何も与えられなかったらどうなるだろう。水は表面だけから静かに蒸発を続け、沸点を越えても温度は上がり続ける。これは「過熱」と呼ばれる非常に危険な状態である。

 そして何かきっかけがあると同時に一気に沸騰が起こって爆発する。いわゆる「突沸」と呼ばれる現象だ。小学校の頃から理科の授業で散々気を付けるようにと言われてきたはずである。これを防ぐために表面に空気の泡を多量に含んだ「沸騰石」と呼ばれる石を予めビーカーの中に入れておく。

 温度が上がるほど泡の臨界半径は小さくなってゆくので、状態はどんどん不安定になってゆく。いずれ、ちょっとしたショックで必ず突沸は起きるものだ。

 (最近では主婦らが「味噌汁が爆発した!」と騒いでいるようだ・・・。)


過冷却

 似たような現象は温度が下がる時にも起きる。水を冷やしていっても凍らないことがある。「過冷却」と呼ばれる現象だ。ある程度の大きさの氷の核が出来ないと凍り始めることが出来ない。容器を叩いてショックを与えると全体が一気に凍る。実験をしたい人はネットで調べれば方法が見付かるだろう。

 これも原理的には過熱と同じである。水分子が冷えて固まろうとする時に、余分な熱を放出する。周囲の分子はその熱を引き受けなくてはならないので凍りにくくなるだろう。それでもその熱を奪い続けてやれば、化学ポテンシャルを使った理論上はちゃんと氷点で全て凍るはずである。ところがそうはならない。

 ここでも表面エネルギーが関係しているのである。しかし今度は過熱の時とは違って、境界面が増えるほど熱エネルギーが余分に発生してしまうことになる。氷の核が小さい時には、凝固する分子の数に比べて新たに発生する境界の面積が遥かに大きいため、この熱を処理し切れなくて、すぐにまた水に戻ってしまう。ある程度大きな核があれば、表面エネルギーの増え方は無視できる程度になる。凝固によるエネルギーの発散で少々温度が上がるかも知れないが、すでに氷点下を幾らか下回っているので、一気に凍ることが出来る。

 過熱や過冷却のように、表面エネルギーの壁を越えられないために辛うじて安定が保たれている状態を、熱力学では「準安定状態」と呼んでいる。


雨、露

 また水蒸気が水に戻る時にも同じ過冷却現象が起こる。水蒸気が集まって水滴になろうとしても、その時に発生する表面エネルギーの割合が大き過ぎる内は、その熱ですぐに蒸発してしまうのである。

 空気中にチリがなければ、霧や雨粒が発生しないという話を聞いたことがないだろうか。水分子は、チリのわずかな隙間に入り込んだり、チリの表面にへばりつくことで、水と水蒸気の境界面を小さくする事が可能になる。こうして一旦「雨の核」として安定化してしまえば、そこから成長して水滴になることができるのである。

 飛行機雲はまさにそのような現象を見ていることになる。また、朝方に草が露にぬれるのも同じである。夏の冷たいグラスや、冬の暖かくした部屋の窓に水滴が付くのは、そこの温度が部分的に低いために水蒸気量が飽和して起こる現象であるから同列にするわけには行かないが、そういう他の物質の表面で凝固が始まりやすいのは同じ理屈である。