新しい教育制度の提案
(叩き台)

「学力検定制度」とでも名付けようか。


前置き

 教育再生会議というのは、政府が、 「教育について我々も何も考えていないわけではありません」と アピールする為に作ったような、大衆向けの宣伝機関なのだろうと思う。

 その有名人の集まりが 2007 年 6 月 1 日に第2次報告としてまとめた発表は、 国の無策ぶりを示すだけの陳腐な内容に思えた。  果たして各界の専門家が議論する必要があったのだろうか。

 それで、私のような馬鹿でさえ、 「私の持っているアイデアの方がまだましだろう」などと勘違いして、 自信を持ってこのような記事を書き始めることになったのである。


取っ掛かり

 私が気になるのは、今の教え方の効率の悪さ。

  • 本当に、6, 3, 3 で12年もの教育が必要か?
  • 落ちこぼれを作らないことを前提とした横並び教育は  「出来る子」にとって退屈以外の何ものでもない。
  • しかし飛び級制度は競争の激化を招き、子供の負担増。

 今回は、第一にこの辺りを解決するという思考経路で、一つの制度を提案してみる。  当然このアプローチでは、ないがしろにされてしまう問題も出てくるだろう。  別の思考経路による全く違った制度の提案は手が空いた時に発表したい。


 「勘のいい子」というのはわざわざ授業を受けなくても理解できてしまうものであり、 授業に費やした時間の多さを重視する「単位」なんていう考えは、 学習効率の悪い人向けの救済制度でしかない。  現行制度では理解できていない子でも授業さえ受けていれば卒業してしまうことがある。  こんなものは無くせばいいのだ。 (そう言えば高校の単位未履修問題はどこ行っちゃったんだ?)

単位制は排除

 結局今だって、中学以上の生徒の能力はテストで測っているのだし、 ペーパーテストや、科目によっては実技テストで評価してしまえばいい。

年に一度の認定試験を導入

 テストアレルギーになってしまっている人は、 この案に対して、即座にアレルギー反応を示すものかも知れない。  しかし少し安心していい。

 これは従来のテストとは少しばかり趣きが違うものとしたいので、 幾つかの工夫を設けることにする。  これにより、かつての受験戦争の時のような、 テストで人格を否定されるというようなニュアンスを拭い去る。  その説明はもう少しあとで。

 時々、教育討論で「飛び級」制度の是非について議論されることがある。  これは、ある学年の内容を完全に飛び越すというニュアンスが強い。  しかし、実際のところ、全科目を満遍なくこなせる生徒は少ないだろう。  ごく一部の、優秀なエリートの選抜制度になってしまいかねない。

 そうなると、子供に負担を強いる親も出てくるだろうし、 他の子供よりも早く進級したことで慢心を募らせる子供や、 逆に取り残されていじける子供も出てくるだろう。

 そこで、科目別にテストで飛び級を認めるようにすればいい。  しかも全員に公平に。

 これを認めると、学年なんて有って無きが如しとなる。  そこで、学年なんて概念を初めから無くしてしまうことにする。

学年の概念の排除

 このテストがなぜ年に一度だけかと言うと、これは国の教育予算への配慮である。  良質のテスト問題を作ったり、その漏洩を防いだり、 監督官を確保してルールを徹底させたりするのは大変な手間の掛かることであるから、 むやみに回数を増やすべきではない。  これはセンター試験のように専門機関を設けるのが良いかも知れない。  これを一種の国家試験と位置付ける。

 これを実施すると、毎年、合格だ、不合格だと大騒ぎが起こるだろう。  しかし、やり直しが利くならば落ち込む必要もなかろう。  多くの科目については「段・級」制として、 しかし必ずしも下から順に受けて行く必要はないものとする。  不合格だった場合には、その悔しさをバネにして、 次の年に、二つ上の級を目指してもいいわけだ。

 この試験は、国語、算数、理科、社会などの他、 体育や、音楽や、家庭科、図画工作などについても実施する。

 音楽や絵のセンスは問わない。  あくまで基本技能だけを問うようにするのである。  「かがり縫いが出来るか」とか「逆上がりが出来るか」とか 「楽譜が読めるか」とか 「一定量の文を制限時間以内で書き写した場合、 字がどれくらい綺麗に書けるか」とか 「敬語がどのレベルでしゃべれるか」とか 「電話応対ができるか」とかそういうものだ。

 国として若者たちに身に付けさせたいと思う技能、技術があれば、 この試験の中に入れるようにすればいい。  どの試験を受けるか、それとも全く受けないままでいるかは各人の自由だ。  興味のあるものに集中してどこまでも高い級を極めるのもその人次第だ。


この制度の利点

 利点を挙げてみよう。

 成績という概念がなくなって、資格有りか無しかだけが問題となる。  成績の良し悪しについて、余計な負い目を持つ必要がなくなる。  そのために、試験結果の公表は厳重に伏せられるべきだろう。  これで学校の先生も通知表を付ける手間から解放される。

 試験だけが重視されることになるから、たとえ不登校の児童であっても 自宅学習でカバーできる可能性がある。

 彼らの自宅学習を支援する為に、塾が活躍できる。  学校の代わりとして、民間の塾がこの事業に参入し易くなる。  試験という基準があるので、塾が教える内容を一定水準に保つことが出来る。

 現在見られるような、子供が学校が終わった後で、 さらに深夜まで塾にも通うという無茶を減らせる。

 教科書検定を、最小限にすることが出来る。  それにより面白い教科書が出てくることが期待できる。  試験に合格するという目的があるので、 おかしな内容のものは市場において淘汰され、質は制御しやすい。  要するに、参考書のようなものだらけになるということ。

 検定を受けた教科書だけは国から補助金が出て、 安く売られるようにすれば、貧困層の負担が減らせるだろう。

 利点ばかり書いていても仕方ない。  次に、私が現在思い付ける範囲の問題点と、解決法を考察しよう。  それでもっと良くなるかも知れないし、 私のアイデアの細かな点が見えてくるだろう。


授業への出席

 テストだけが重視されると、 普段の授業への出席が疎かになることが予想される。  今の形態の学校は、これからも学校として存続できるだろうか。  これは予測が必要な、私も興味を持っている課題だ。


先生の教え方問題

 あるクラスに属していた子は、 ある科目の試験が全滅だった、ということが起こり得る。  私は、音楽や歴史を教えるのが非常に下手な先生にあたって、 よく分からないうちに一年が過ぎた、という経験がある。  それでも進級、卒業できてここまで来たのだから、 おかしいと言えばおかしい。  今の状態がおかしいのだ。

 年末の試験をあまり厳しいものにしなければいい。  それによって飛び級者は続出するだろうが、 蹴落とす為の試験ではないので、それでもいいのではないか。


さぼり問題

 授業への出席が重視されないと、 嫌いな科目については一切何も学ばなくなる可能性がある。  現状では、嫌いな科目であっても取り敢えず授業には出ているので、 何らかの情報を取り入れることはできるが、それがなくなってしまう。

 これに対処する為に、国は何らかの指針を明確にする。  「小学校卒業レベル」とか「中学校卒業レベル」とかの 基準を示して、それをクリアすることを「推奨」する。  しかし強制ではいけない。

 高校生くらいの年齢になると、 「ああ、この歳で『敬語』が 8 級のままなのは恥ずかしいな」と考えて、 いきなり 3 級あたりを受けるかもしれない。  これはそういうことが出来る制度なのだ。  「生涯教育」を兼ねているということを分かってもらえるだろうか。

 なぜ低い級のままだと恥ずかしいと思うのか。  それは、この試験による評価が就職に影響するからだ。


就職問題

 就職の際に、取得した級を履歴書に資格として書くことにする。  これで出身校による差別というものが防げるだろうし、 能力によって正当に評価されることになる。  国がそのレベルの資格ありと試験して認めたのだから、信用してもいいだろう。

 本当にその資格が取得されているかどうかは、 企業側で手軽に調べることの出来るような仕組みを国が用意する。  それは割と簡単だろう。  ただし、企業は本人が申告した以外の資格については 調べることが出来ないものとする。  その人が、一時期は別の分野で頑張ってみたこともあったけど結局は途中で諦めたとか、 そういう触れられたくない過去もあるだろうから。

 しかし企業は、必要以上に求職者のすべての科目の級を知りたがるかも知れない。  その人がどんな科目にどれほど時間を割いて、 それが無駄な行動だったかどうかなんてことは、 企業によって評価されるべきではないのだ。

 そのための仕組みは割と簡単に思える。  企業は求人の際に、どの科目がどの級以上ある必要があるかを公表して、 求職者は履歴書に「**級以上」と書くだけで良い事にすればよい。

 それと、その級がいつ頃に取得されたものであるかも企業は問うてはならないし、 決して調べることが可能であってはならない。  若い内に高い級を取得しておいた方が有利だなんてことになれば、 教育熱心な親が、子供に負担を強いることになるだろう。

 いつ勉強して、いつ資格を取ってもいいのだ。  必要な時に必要なものを取れる。  これは生涯教育の活性化にも繋がる。


低い級の無意味化

 低い級から順に受けてゆく必要がないのだから、 小さい頃に一生懸命勉強しなくても、 大きくなって一気に高いレベルにチャレンジしてしまえる。  小さい頃に苦労して取得した級が無意味になるのではないか。

 確かにそうだ。  それでもいいではないかと私は思う。  この制度自体、半ばお遊び的要素があるのである。  まるで、テレビゲームで自分のキャラの技能の数値を上げて、 徐々に自分を育てて行くようなイメージがある。

 勉強に於いて、このお遊び要素は非常に大事なのだと私は考える。  自分自身をある属性に特化させて行くのもまた楽しいものだ。  互いの能力における個性を認め合えたりもするだろう。


道徳の授業

 私はこの制度を思いついたとき、道徳の授業はなくてもいいと考えた。  心は他人に評価できないからだ。  代わりに「日本の一般常識」あるいは「礼儀作法」という 科目を用意すれば、教育自体は出来る。  この科目でどれくらいの級を取得しているかは企業としても重視することだろう。  学んだことに従うかどうかは、その人任せだ。

 私が道徳の授業に否定的な理由は他にもある。  私自身は道徳の授業は好きだったが、 それは先生から「目新しいお話」を聞かせてもらえるからであって、 その後の説教臭い結論へと向かう部分では、内なる反発心を覚えたものだった。  当時としては自分の気持ちを表す語彙が足りなくて言葉にならなかっただけだ。  私のようにクソが付くほどの真面目な性格だった少年が、 常識への反発心を育んでいったのが、道徳の授業であった。  現在、国がやろうとしていることは逆効果になるかも知れない。

 道徳的なことは、そのための授業の時間を設けてやるよりも、 普段のやり取りの中で身に付けて行くようなものだろう。  尊敬できる先生というのは、普段の態度が尊敬されているものだ。  しかし今提案している制度ではそのような機会も無くなってしまう。  何か代わりの妙案がないものだろうか。

 道徳の授業に対して否定的なことを書いたものの、 私自身は家庭において道徳心をみっちり仕込まれてきたのであり、 現在、自分の子供に対しても同じように教えている。  悪いことをしたときの心の働きを知ること、自分の心を観察すること、 自分の感情を制御するやり方の具体的方法について。  そしてそれらの訓練は自分の子の人生を必ずや豊かにするだろうと確信している。

 ならばそれを制度として取り入れることは出来ないだろうか。  今のところ、私は自分なりのやり方をしているのであり、 万人に通用する方法論を持ってはいない。  それにこれは、一つきりの方法論で画一的にやりたくはないと私は思う。  子を思う親の愛や、子の親への信頼なくしては教えにくいものだ。

 社会的コストを軽減させるために、 子供を一箇所に集めて一斉に教えるというアイデアは効果的だが、 これを道徳にまで適用することには抵抗がある。  確かにコストは掛かるが、それでも、 子供を教える責任のありかを、親から学校へと移動させるべきではないと思う。  これはコストを度外視してでも行うべき事柄なのだ。  効率を求めてはいけない。

 学校は学問を身に付けさせるところであると割り切って運営した方が、 社会的には効果的であると考える。  この点をこの案の柱の一つとして追加しておこう。

学校は勉学をするところ。
 託児施設ではない。


体育の授業

 体育の能力については技能試験で測れるかもしれない。  しかし、子供にとって大事なのは、 時間を取って運動する時間を持つということだ。  これは必修とすべきかも知れない。  どうしたらいいだろう。

 ただし技能試験を実施することは子供にとって、 チャレンジしたい目標になるかも知れない。  まぁ、跳び箱や鉄棒なんてものは、 大人になって背が伸びたら自然に難しくなくなったり、 駆け足だって自然に速くなっていたり、 逆に昔は出来たはずなのにいつの間にか出来なくなっていたりするわけだ。

 それでもこの制度の中では大人も子供も容赦なく一律の基準で合否を決めるしかない。  余計な年齢条件を入れるとややこしくなるし、基本理念に反する。  この制度は半ばお遊びだと書いた通りで、深刻になってはいけない。

 大人でもチャレンジし甲斐のある高度な技も、 上の方の級に入れておけば楽しめるのではないか。


いじめ問題

 この制度全体は「いじめ問題」の解決法の一つにはなり得るが、 問題が起こった場合の逃げ道を確保しているだけであって、 問題と真正面から戦ってはいない。  いじめが起きないように、 その原因である人間的弱さを徹底的に潰して教育するのではなく、 問題が起きにくい環境を作っているだけである。

 しかしいじめ問題というのは、個人が弱いのではなく、 社会の歪みが表れているのだという考えもある。  問題が起きにくく出来るなら、それも一つの解決法だ。


集団行動

 私がこの制度で一番、目をつぶりたい弱点だと思っているのは、 人間関係が希薄になるという点だ。  これでは共同して計画したりする能力が養われない。

 理科の実験を一緒にしたりすることもなくなるだろう。  互いの意見を戦わせることもなくなるだろう。  何かその辺りをカバーできる教育法はないだろうか。


レクリエーションの確保

 現在の教育制度には、 日中、子供たちを学校に縛り付けておいて、 彼らが犯罪を起こさないように、 あるいは巻き込まれないように管理しておくという側面もある。

 校区外外出を禁じたり、 部活に半強制で参加させて疲れ切るまで運動させたりするのはそのためだ。

 しかし部活というのは楽しい面もある。  健全な娯楽施設の運営を増進する必要があろう。  でも、どうやって?


不人気科目の保護

 なぜ現在の教育制度において、 古文や漢文などの、実生活で大して使わない科目についても 高度なところまで教えようとするのか・・・。  それにはちゃんと理由がある。

 それは国がそれらの学問を守りたいためであって、 一定レベル以上の研究者を国内に確保しておきたいからである。

 ところが、私が提案している制度は、言うなれば、 国民や企業の動きによって、学問を淘汰しようとする制度でもある。  人と人の間に生じる競争を緩め、 その代わりに、科目間に競争原理を働かせようとしているのである。

 不人気科目がこの競争から保護される必要があるか、 そもそも保護する必要のある事態に陥ってしまうかどうかは、 まだ考えを煮詰めていない。


大学をどうするか

 ここまで、おおよそ高校までの教育を念頭に置いて考えてきた。  大学制度については考えを煮詰めてはいない。  下手なアイデアを取り入れれば、この新提案の制度全体を 根底から覆す事態になってしまう。

 大学への入学というのは、企業が人を選ぶ時とは違って、 人選はより公平でなければならないだろう。  しかし大学には定員があり、条件を満たす人の全てを受け入れるわけには行かない。  だからと言ってここで入学試験を実施すれば人と人の競争が起こるだろうし、 それによって、企業が大学のブランドによって人を選ぶことになる。  出身校差別が起こる可能性がある。  それが良いか悪いかというより、 これでは今までと大して変わらないので面白くないのである。

 もう少し時間を取って考えないといけない。


スクーリングの必要性

 子供にはある程度、規則正しい生活というものを 習慣付けてやらないといけない。  放置しておいてそれぞれに任せただけでは碌な結果にならない。

 勉強の習慣というものも教育されるべきだし、 前に書いたように適度に体を動かすことも必要だ。  また、ある程度の勉強法を確立するのに、時間が掛かるだろう。

 それでやはり、この制度は少なくとも 小学校5年生以上くらいから始めるのが良いのかも知れない。  そうなると、それ以前の学年の教育は やり方としては今までと大して変わらないということになる。  うーん、それでは何だかつまらない。

 ところがここ最近良く耳にする 「教育バウチャー制度」というものを取り入れることを考えてみたらどうだろう。


教育バウチャー制度

 私はこの制度にはあまり興味がなくて調べもしなかったのだが、 私の案と絡めて考えると非常に相性がいいように思える。  というより、私の案の致命的な大穴をほぼ解決してくれそうなのである。

 教育バウチャーというのは、 教育のためだけに使えるクーポン券みたいなものを、 国が国民に支給するという制度である。

 つまり、 「それを使って塾でも学校でも好きなところを自分で選んで行きなさい」というわけだ。  塾はこれを獲得する為に、教育内容を工夫して生徒を集めることだろう。  評判が良ければ生徒は集まるものだ。  生徒、あるいは生徒の親が肌に合わないと感じれば、 いつでもやめて別のところへ行けばいい。

 ところで、年に一度の試験についてだが、 これを貧困層に配慮して無料化してしまえば、 逆に、片っ端からあらゆる試験を受けまくるという愚行が蔓延することだろう。  しかし試験についてもこのようなクーポンを使って受けられるようにすれば、 そのような問題も抑えられよう。

 そのようなバウチャーを発行する予算の出所についてはあまり心配しなくていい。  現在の国の教育予算のほとんどを、このバウチャーに回せばいいのだ。  今ある公立の学校を潰す覚悟である。  生き残りたければ、公立校もバウチャーを獲得できるように努力すればいい。

 レクリエーションや部活なども、 バウチャーの適用範囲としたらどうだろうか。  面白そうな活動がそこらじゅうに生まれるような気がするのだが。


結び

 なぜか最近の私は教育について非常な憂慮と関心があり、 掲示板にて物理そっちのけで議論しながら、 色々な意見を参考にさせて頂いていたのだった。

 ちょうどその時、その日のニュースを見て、 国の教育に対する無策ぶりに憤り、 勢いに任せて、 自分のアイデアを掲示板上に発表したのだった。  それはまだ自分の中で検討中のぼんやりした思い付きに過ぎなかったにも関わらず。

 そのアイデアの全てを掲示板に書き込むわけには行かなかったので、 詳しい説明を記事としてまとめ、 それに批判を貰って改善しようと考えた。

 そのうち、最初の思い付きだけではほぼ机上の空論と化すことが分かって、 完全に捨て去ろうと思うようになった。  しかしバウチャー制度との融合を思い付いて何とか息を吹き返した感じだ。

 いや、捨て去ろうと思った本当の理由は実現に大きな問題があることに気付いたからではない。  取り合えず面白そうだったので、 問題点に目をつぶってでも発表だけはしてやろうと頑張ったのだった。  私を最も挫けさせたものが他にある。

 巷では「オタク検定」やら「漫画検定」やら「メイド検定」やらが 話題になっているようだ。  この記事を書いている間にもそのようなものが次々とニュースに出てきたが、 そのせいで、検定制度の発案自体が陳腐化しているように思えて、 発表が恥ずかしくなってきてしまったのだった。

 しかしマニア受けするような、ちょっと怪しい雰囲気のある検定ばかりでもなく、 他にも「地元の観光検定」や各分野での「物識り検定」みたいなものも出てきている。  視点を変えてみれば、検定は世間で受け入れられているのであり、 このアイデアはひょっとして時流に乗れるのではないだろうかとも思える。  まぁ、流行りかどうかはどうでもいい。

 私はこの制度の中で教育を受けてみたいと思う。


目次へ戻る