脱インテリ社会

インテリぶった題名をつけてみましたが俺には書けねーな


 かつて「インテリ」がもてはやされた時代があった。

 このことを現代の若者に説明しようとした場合、 この言葉にジェネレーションギャップがあることを 話さなくては誤解されてしまうだろう。  「インテリ」という言葉の本当の意味はともかく、 これは一昔前の風潮、流行りだったのだ。

 彼らは何でもないような事でもやたら面倒くさい格式ばった表現をして 得意になったものだ。  すると「よっ、インテリだねー」なんて周りから囃される。  机上の空論をもてあそぶようなやり方が知的であることの証明だったのだ。  今の歳を取った政治家たちはこの世代であり、 今の難しい教科書を書いている先生方もそういう価値観の中で育ってきた。  簡単なことをいかに格調高く表現するか、 いかに高尚であるかのように装うかという事に意識をおく。  彼らにとってはそれが当たり前になっているので 特に「意識」しているわけでもないようだ。  こういうことが出来ることが尊敬の対象だったわけだ。

 ところがいつの間にか世の中の評価は変わった。  学力が落ちたという見方もある。  確かに語彙力は減っているし、難しい論説を読むと、 「結局何が言いたいわけ?」と思う。  今の世代には彼らの言葉が理解できないのだ。  学力は確かに落ちたかも知れない。  難しい言葉の意味を解釈する能力も落ちているかも知れない。  しかし、それだけではない。  今や、インテリの意味そのものが変わっているのだ。  例えば、「なぜ大学に行くのか」と聞かれて、 理想論を語り、長々と薀蓄を垂れるのがかつてのインテリ世代であった。  しかし今では「就職のため」とあっさり答える方が 現実をよく見ている知的な奴だという高い評価を受けるのである。  逆に理想論を長々と語ることしかできないような奴らは、 現実が見えていない使えない奴だという評価を受けてしまうのである。

 私はわざわざ難しく表現することが素晴らしいとは思わない。  なぜなら大抵の場合、彼らの難解な言葉を要約すると何も残らないからだ。    果たして難しく表現することはそれほど大変だろうか?  むしろそれを理解する方が大変であって、 このスピードが求められる社会において多くの人に 負担を強いるこのやり方は合っていないのである。  それより表現する側が知恵を絞って分かりやすい文章を書いた方がいい。  悔しいことに、そこにどれだけの工夫が隠されているかは 読み飛ばされてしまうわけだが。 漫画に似ているな。

 実は私自身に葛藤があってこのような文章を書いているのだ。  私がやっている 「分かりやすい教科書を書くこと」「代わりに考えてやること」は 多くの学生の理解度を上げるかも知れないが、 逆に解読能力を下げてしまうのではないだろうか。  しかしすでに世の中全体で解読能力が落ちていて、 難解な教科書に苦しんでいる学生が多いのだから、 せめて理解度を上げて、人海戦術で事に当たるのがこれからの解決策かも知れない。  つまらないことで悩んで時間を費やすよりそれを使って何かが出来た方がいい。  子供に1+1を教えるのをもったいぶって 抽象的な話をするようなことをしないのと同じではないか。

 妻に向かってこんな話をしながら「インテリって分かるか?」と聞いたら、
「うちみたいなのじゃない?」と言う。
 「え、そ、そうか?」
 「だって、共働きじゃなくて私、専業主婦やってて、 こうやって優雅にメロン食べたりしてるし・・・。」
 「そりゃ違うだろ。 ただの小市民の幸せってやつだ。」
 「まあ、山の手の奥様みたいにざます言葉は使わないしね。  オホホホ・・わたくし、インテリざまスのよぉ〜。」
 「・・・。」

 インテリってそんなイメージしかないのか・・・。


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