高校のとき、勉強に明け暮れる私たちに向かって 京大出身の担任教師が突然問いかけた。 「お前ら、何のために勉強しとるか分かっとるか?」 聞き飽きた質問だと思ったが、 それでもこのことが印象に残っているのは この後の彼の言葉が意外だったからである。 「お前らの人数が多過ぎるからだ。」 私たちはまたくだらない理想論をぐだぐだと聞かされるのかと思っていたが、 どうやら違うようだ。 「大学にはお前ら全員を受け入れる準備がない。 それで人数を絞らなきゃならんのだが、 世間を納得させられる方法で選ばなきゃならん。 それで試験をするだけの話だ。 定員が十分あればお前らそんな勉強なんか必要ないんだぞ。」 他の教師からはそれまで聞いた事のない言葉に驚きはしたが、 考えてみれば当たり前だよな、と軽く受け止めただけだった。 その話を聞いたからといって私たちが勉強しなくてはならない 事実に変わりはなかったし、勉強法が変わるわけでもなかった。 それより何より、当時の私たちは大学に入るために 勉強するのは当たり前なのだと信じ込まされてしまっていた。 「まぁお前らに今こんな話をしても仕方ないか。 まだ分かんないかな・・・。」 その教師は苦笑いして別の話題へと移っていった。 そして、この言葉が本当だと気付いたのはずっと後だった。 私は単なる勉強バカだった。 なぜスポーツの才能で大学に入れるのかとか、 一芸入試なんて制度が出てきたことについても全く疑問を持たないでいた。 結局は資本主義社会なのだ。 その思惑に振り回されていただけなのだ。 やがて大学は資金源としての生徒の取り合いになり、受験は簡単になるだろう。 受験のために勉強が必要だなどという考えは一時代の思い込みに 過ぎなかったことを思い知らされることになる。 しかし受験が簡単になれば生徒の質も下がり大学の評判も落ちるということで、 大学側も生き残りを賭けたジレンマに悩まされているようだ。 結局、あの狂った時代はなんだったのだろう。 少子化の時代が来て、「受験戦争」なんて言葉も聞かれなくなり、 親も、子供が大学に合格するかどうかよりも ノイローゼや引きこもりにならないかを心配するようになった。 高校生の約半数が自宅勉強をしないという統計も出ている。
もはやこんなコラムは誰の役にも立たないのかも知れない。
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