私は高校に入ったが相変わらずあの呼吸法を続けていた。 通学距離はやはり長い。 駅まで10分歩き、駅から40分電車に揺られて隣町へ行き、 駅を降りるとそこから再び30分ほど歩くのである。 この時間は考え事をするのに大変都合が良かった。 常に気を丹田に集中しながら歩く。 ギンと張り詰めた空気をまとっていた。 私はこれまでの訓練の成果を感じていた。 だからこそ、いまだに続いているのだ。 邪悪な気を持つ霊の接近を感じることがあったし、 自分を守っていてくれる存在を常に身近に感じるようになっていた。 いつも守護霊にお礼を言うようにすると、守護霊もどんどん強くなるという話を 聞いていたのでそれも実行していた。 そうしなくては心細いほど邪悪な気配は容易に近付いてくる。 おかしな話を信じたせいで臆病になったのだろうか? いや、むしろ自分の力には自信がついている。 中途半端に力をつけたせいで、狙われやすくなっているようだ。 私は彼らには一切、耳を貸さないことにしていた。 私は正しく私を導く声に勝手に名前を付けて大切にしていた。 その声は新しい知識をくれるわけではなかったが、 いつも正しいことを選ぶように私を励ましてくれた。 その声は決して私を強制しなかった。 私はその声に耳を傾けている限り、自分が正しい場所にいることを確信できた。 自分の良心の声を勝手に人格化しているだけだと 分析してもらっても構わない。 本当のところは私にも分からないのだ。 自己満足、自己欺瞞だと批判する者もあろう。 しかし、この声を知らない者にはこの確信や喜びは理解できまい。 人がどう思うかは関係ない。 私は正しいと思ったことを行うのみである。
真理を求めようとする者は、繰り返し自分を吟味する必要がある。 果たして自分が真理と呼ぶものの正体は何だろうか。 真面目に求めているつもりでも、なかなか気付かないものだ。 仮面をはがせば、 偽善、高慢、名誉欲、権力欲だったりする。 私はこの後、大きな試しを受けることになる。 私が本当に愛するのは真理なのか、それとも奇跡の現れなのかを。 この頃はまだ、その二つに違いがあることさえ気付いていないのだ。
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