私は声を聞いた以上は探さざるを得なかった。
私が神様に呼びかけ、神様がそれに答えて下さったのだから、
今度は私の方が神様の信頼に応えるべきなのは当然であろう。 放課後、図書室へ行って旧約聖書を探した。 新約聖書については全く眼中になかった。 あれはイエスキリストという人物の行いを弟子たちが書き残したものだと聞く。 いくらある人間が奇跡的なことを行ったり、人柄が優れていたとしても、 それにすがろうなんて思わない。 そもそも、イエスキリストというのは人間ではないか。 人間を救世主として礼拝しようと思う精神構造が不思議でならない。 どうして死んでしまった人間が世界を救ってくれると信じられるだろう。 そんなものに頼ったところで宇宙の真理に到達できるわけがない。 どう考えても不合理である。 たった2千年前かそこらになって、人が人の考えで作ったものなのだから、 神様とはまるで関係ないではないか。 その点、旧約聖書には天地創造に始まり、バベルの塔、ソドムとゴモラ、 紅海を真っ二つにしたモーセのエジプト脱出など、 沢山の奇跡が載せられていると聞く。 神様がこれまでに行われた人間への干渉の数々・・・。 私に声をかけられたお方が、 「人々のために手を差し伸べてきた」「これ以上何が出来ただろう」 「聖典を調べ、わが業を思い見よ」と表現された行為が 載っているとすれば、この本をおいて他にはないだろう。 数日は図書室に通った。 創世記を半ばまで読んでみたが、どうにもよく分からない。 なぜ神はソドムとゴモラの町を滅ぼされたのだ? 人間を創造されたのが神だとしても、果たして、 そこまでする権利があるのだろうか? 作った者は作られた者を好き勝手に扱っていいとでもいうのか? なぜ神はアダムとイブを追い出されたのか? なぜ誘惑を受けるような状態に彼らを置かれたのか? なぜ神は戦争をするように命じられるのか? 神がどちらかの民族の側に立って戦われるなどということはあるのだろうか。 私の心は再び乱れ、叫んだ。 「私には分かりません。これは本当にあなたが行われたことなのですか? だとすれば、なぜ? 私に「我が聖典を調べよ」と言われたことの意味は何なのでしょう? ここに書かれている事はあなたから受けた印象とは大きく離れています。」 私は答えを探していた。 しかし、なぜか教会を尋ね歩こうという気は起きなかった。 学校のすぐ裏にも一つ教会が建っていることを確かに知っていたにも関わらず。 その時から不思議なことが起こった。
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