理系と文系

書き始めてから考えが転げた。


 私は理系、文系という言葉が嫌いである。  そのような区別の仕方が嫌いだからだ。  話し相手が使ってきた場合には、 即座に相手が使った意味に合わせて使うようにしているが、 それ以外の場面では自分から そのような分類を使うことにはかなり慎重になる。

 「私は文系なので分かりません」と言い訳する人には まず反発心を覚えてしまう。  それならば文系としての素養はちゃんと持っているのだな、 と相手を試したくなる。  こういう言い訳をする人は、単に数式が嫌いであるか、 論理的思考が出来ないかというだけのことが多く、 文系をバカにするんじゃないよ、と言いたくなる。  論理が通用しないことには 文系人としても致命的だろうと思うのだ。

 理系文系の違いではなく、 論理重視と感情、感覚重視の傾向の違いなら、人間には確かにある。  それによって科目の向き不向きもあろう。

 ・・・とここまで書いてみて、 自分の論理に隙があることに気が付いた。  人間の性質に差があって、 それがおおよその傾向として、向き不向きに影響するとしたら、 それを文系理系と表現することはそれほど憎むような事ではなく、 ある程度は許される事ではないだろうか。

 例えば、私自身が、 「私は論理重視型なので、抽象画は理解できません」と 心の中でも言い訳する事はないだろうか。  「それが私にも分かるように論理的に説明して下さい」と 頼みたくなる事はないだろうか。  それで相手から、 「どうしてこんな簡単なことが分からない?  それは論理で説明するものではないものだ」 と返されたとしたら、私は憤慨しないだろうか。

 どちらも理解できるならそれに越した事はないが、 ちょっとした努力ではどうしようもならないこともある。

 明日から、もう少し優しくなろうと思う。


 考えてみれば、本を書いたり、テレビで論説を述べたりするだけが、 人間としての表現の全てではないよな。

 歌ったり、踊ったり、絵を描いたり、 優しさの示し方や礼儀だとか、 無形の文化として継承して高めていく事も大事なことだよな。

 文学の表現や歴史の流れを論理的に説明できたとしても、 その素晴らしさを鑑賞できなかったり、 登場人物の心情と行動の関係を心で感じられなかったりしたら、 大事な部分を見逃しているような気がする。


 実はこういうのは学問に限らないし、 理系、文系に関係なかったりするのかも知れない。

 私の父は職人気質で「学問」とは縁が遠い人なので、 理系とも文系とも判別が付かない。  工業系なので「どちらかと言えば理系」かも知れないと 思える程度だ。  彼は「漫画」がまるで理解できないという。  単純で分かり易い4コマ漫画でさえ。  母や私が説明してあげると、 「うーん、そこで笑うのか」と理解はする。  母は言う。  「説明してしまっては何も面白くない!」  彼は普段笑わない人ではない。

 私だって人の事は言えない。  同じ理系の友人の中でさえ、 「ぼのぼの」や 「ぷりぷり県」で 大爆笑するやつらがいた。  残念ながら私には全く理解できなかった。  これらの漫画は好みが真っ二つに分かれるようなので、 私だけではないのが救いだ。

 我々は人間を学問中心にとらえ過ぎなのだろう。


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