実はこれだけの内容
多電子原子には様々な励起状態があるが,一体何通りのエネルギー準位を作るのか,という問題を前回考えたのだった.今回説明しようとしているのは,その中で最もエネルギーが低いエネルギー準位はどれなのかを判定するための規則である.それは「フント則」あるいは「フントの規則」と呼ばれている.
一番低いエネルギー準位ということは,つまりそれは励起状態ではなく,基底状態である.原子はどんな電子状態で安定して存在しているのかというのは重要な問題であろう.
前回の話を理解できていれば,この規則は簡単に説明できてしまう.LS結合を仮定すれば,エネルギー準位は全スピン角運動量と全軌道角運動量とこれらを合成した全角運動量の 3 つで分類できるのだった.そのような多数のエネルギー準位の中で,
(第 1 規則) | が一番大きいものが最低エネルギー準位である. |
(第 2 規則) | もしが同じ準位が複数あるならその中でが一番大きいものが最低エネルギー準位である. |
(第 3 規則) | もしもも同じなら,で決まる. ・電子が亜殻の半分以下ならが一番小さいものが最低エネルギー準位である. ・電子が亜殻の半分より多いならが一番大きいものが最低エネルギー準位である. |
このように単純な規則なので,ひょっとして全ての準位をエネルギー順に並べるのに使えるのではないかという気がしてしまうが,当てはまらないことが多くてあまり信頼はできない.基底状態についてはかなり正しく言い当てることができるが,それでもごく僅かな例外が存在している.
この規則は 1927 年頃にまとめられた経験則である.量子力学が確立したとされる時期の直後ぐらいではあるが,量子力学を使って導き出されたわけではない.量子力学を使ってこの規則が成り立つ根拠を説明しようという試みはすぐに行われたが,このような問題にコンピュータが使われだしたのは 1960 年代になってからであり,それまでは簡略化した手計算や,今となっては正しいとは言えない仮定に基づいた考察が行われていた.
フントの規則が成り立つ理由についての物理的な説明は古くからあり,今となっては正しいとは言えない解釈もいまだに教科書に載っていたりして広まっている.いかにも正しそうな話だからなかなか間違いが見抜けなかったのである.数値計算の結果を詳しく分析することによって 21 世紀になってようやく決着が付いた話もある.その辺りの話はまた別の機会にしよう.
検索してみると,まだ全然解決していないのだという話があれこれ出てくる.
参考:『フント則の起源は何か?(最近の研究から)』(日本物理学会誌)
(上のリンク先からPDFがダウンロードして閲覧出来ます)
『ヘリウム様原子におけるフントの第一規則の起源』佐甲徳栄
http://www.phys.ge.cst.nihon-u.ac.jp/~sako/のResearch Projects 内に置かれています.
よくある出題
化学分野では「フントの規則が正しいと仮定して,現実の基底状態の電子配置から,基底状態のスペクトル項を求めなさい」という出題がよく行われているようである.要するに,どの亜殻に何個の電子が入っているかという情報だけからの 3 つの数値を得ることが出来れば解決である.
この問題の解き方は極めて簡単なのだが,まだスペクトル項をよく分かっていない学生がこの解き方を参考にしてスペクトル項とは何かを理解しようとすると,誤解と混乱に陥る可能性が高い.詳しくは後で説明しよう.今から説明する方法は,すでにスペクトル項を理解している人が最速で正解にたどり着くための「ずる賢い術」だと理解してほしい.
例として d 軌道に電子が 7 つ入っている場合を考えてみよう.この例は説明しやすさの都合で適当に選んでみたのだが,そのような元素のうちで一番原子番号が小さいのはコバルトで,電子配置はである.d 軌道以外は完全に埋まっているので無視すれば良い.
d 軌道にはの 5 つの状態があるが,スピン状態も二通りあるので全部で 10 個の電子を収納できる.化学分野では電子のスピン状態を上向き,下向きとは表現しないで,α軌道,β軌道と呼ぶことが多いようだ.
確かにスピンの上向き,下向きというのは便宜的な呼び方なのでそちらの方が良い気もする.しかし結局は上向き,下向きというイメージを経由するのだから,回りくどい感じがしなくもない.
フントの第 1 規則によると,全スピンが大きいほどエネルギー準位が低いというので,なるべく大きくなるようにα軌道から順に電子を埋めていく.半分まで埋まったら仕方なくβ軌道を埋めていくことになる.
そしてフントの第 2 規則によると軌道角運動量の合計が大きいほどエネルギー準位が低いというので,磁気量子数がなるべく大きいものから順に軌道を埋めていく.この規則よりも第 1 規則の方が優先されるので,次のような順で電子を入れていくことになる.
m=2 | m=1 | m=0 | m=-1 | m=-2 | |
---|---|---|---|---|---|
α軌道 (s=1/2) | (1) | (2) | (3) | (4) | (5) |
β軌道 (s=-1/2) | (6) | (7) |
こうして 7 個まで埋めたら,の値の合計との値の合計を数えてみよう.それがとである.とという結果が得られるはずだ.
フントの第 3 規則によって,は最大値か最小値のどちらかである.今は電子は d 軌道全体の半分を超えているので最大値であるの方が答えである.
結果はであるが,スペクトル項記号の流儀に従って次のように書く. 答え合わせをしたければ,「英語版wikipediaの項記号(Term symbol)」に載っている周期表の図や,アメリカ国立標準技術研究所(NIST)のデータベースが役に立つだろう.
複数の亜殻が空いている場合は?
上の問題を解くときに完全に埋まっている亜殻のことを無視しても大丈夫なのは,スピンも軌道角運動量も完全に打ち消し合っていて 0 になっているからだ.しかし幾つかの元素では,一つの亜殻を完全に埋める前に他の亜殻にも電子が入っていることがあるから,どちらの亜殻について考えたらいいのか困ってしまう.
そういう場合にはそれぞれの亜殻でとを求めてやってどうし,どうしを合計してやれば成り立つ.をにするかにするかの判断で迷う場面はほとんどない.大抵は s 軌道に 1 個の電子が入りながら他の軌道にも入っている場合であり,その場合は s 軌道以外のところの電子の個数が半数を超えているかどうかで判断すれば正しい結果が得られる.それ以外の場合でもほとんどは亜殻の中の電子の数がともに少ないのでの方でいい.
どうにも判断に困る例が 2 つある.ガドリニウムとキュリウムだ.どちらも f 軌道に 7 つ,d 軌道に 1 つという電子配置になっている.f 軌道には全部で 14 個入るのでちょうど半数であり,は最大値の方を選べばいいのだろうかと思いきや,最小値の方が正解である.フント則はそこまで細かいことを規定していないようなので,フント則が成り立たない例だとも言えない.
フント則が完全に成り立たない例が一つだけある.セリウムである.f 軌道に 1 つ,d 軌道に 1 つ.f 軌道に 1 つならであり,d 軌道に 1 つはで,合計すればなのだが,実際にはなぜかである.どちらにしてもとなるのでそこは問題ではないが,全スピンがなるべく大きい方が実現するという第 1 規則と,全軌道角運動量がなるべく大きい方が実現するという第 2 規則のどちらにも逆らっている.f 軌道の電子と d 軌道の電子のスピンが互いに逆向きに入っているようなのだ.
フント則の意味
フントの第 1 規則は,電子がなるべくスピンの向きを揃えて入ろうとするという性質を表している.しかし経験則なのでなぜそういうことが起こるのかという点については何も教えてくれていない.これについては量子力学を駆使して解決するしかないだろう.
前回の記事でLS結合のイメージを説明したときに「スピンどうしのやり取りはほとんどないのかも知れない」と書いてしまったが,スピンどうしが同じ向きを向く性質がこれだけ強いのならかなりの相互作用が働いているのではないだろうか?その辺りはどうも私の直観とは合わない.実際はどんな仕組みになっているのか気になるところだ.
セリウムがこの規則から外れているように見える理由も気になる.
フント則には,基底状態の電子配置がなぜそうなっているのかという説明能力もないし,予言能力もない.なぜなら,今埋めつつある亜殻よりも他の亜殻に先に入った方がエネルギー的に安定かどうかということについてはほとんど何も述べていないからである.フント則は一つの亜殻内でだけ通用する規則である.
例えばスピンを大きくしたいという傾向があるのなら,一つの亜殻を半閉殻にしたらスピンの向きを揃えて入れる他の亜殻に積極的に入っていけば良いだろうにもかかわらず,実際はそうなってはいない.
第 2 規則についても同様なおかしさを指摘できる.例えば Cr や Cu はマーデルング則を破って,4s 軌道の電子をもらってきてまで半閉殻や閉殻を作ろうとするが,もし L を大きくしたいという傾向があるのなら半閉殻や閉殻を作らないほうがマシなはずなのである.ニオブもマーデルング則を破るが,半閉殻が完成するわけでもないのに,d 軌道に 4 番目の電子を持ってこようとしている.4 番目の電子は m=-1 であり L を下げるので,わざわざそうする理由が説明できない.
先ほどやってみた問題のように,既に実験によって明らかになった電子配置を元にして,その時のややの値を推測できるくらいである.だからフント則が何かもっと深いことを語っているのではないかと期待してあまり長い時間を費やさない方がよいだろう.
しかし,かなり広く成り立つ分かりやすい形の法則としてまとめられていること自体は重要である.このような法則が成り立っている理由を探ってみたいところである.今回はやらない.
何が問題か
先ほど解いてみた問題の解法のどこに誤解の危険があるかを簡単に述べて終わりにしよう.前回の話を読んでくださった読者に対してはこの指摘は不要かも知れない.
まず,スペクトル項と電子配置との間に一対一の関係があるように錯覚してしまう危険性がある.この問題を解くために便宜的に磁気量子数を使って電子の配置を作っているが,それは軸方向だけから見た一面的な見方である.実際はあらゆる方向から見た同様な状態が重なって存在している.
しかもそれはとの組を確定するための手段に過ぎない.の違いによって実際に最低準位になる電子配置というのはさらにずっと複雑である可能性がある.その解法で使った配置が本当に起きていると思い込んでしまってはいけない.
同じことを繰り返していることになるが,逆に言えばこういうことでもある.上の解法に出てきたようなイメージで何らかの配置を描いてみて「この状態はどんなエネルギー準位になるか?」と問うてみても答えられない場合の方が多い.あるエネルギー準位は複数の電子配置の重ね合わせ状態として実現していたりすることが多いからだ.全ての電子配置でエネルギー準位が確定するわけではない.
言葉を尽くしても納得がいかないと思うので,次回,それを具体的に見せるような記事を書いてみることにしよう.
教えてくれる法則だって?
いや、違うね。