光は運動量とエネルギーを持つ?
物理の教科書や啓蒙書の中でよく使われている表現で,かなり気になる部分がある.それは「光は運動量とエネルギーを持つ粒子である」という言葉だ.君もどこかで目にしたことがあるかも知れない.これは慣用句のようになっているのだ.(私自身,量子力学のページで無意識に使ってしまっていた!)
しかしこの表現には不自然さを感じるのである.あたかもある男が「私には妻と配偶者がいます」と言っているようではないか.妻も配偶者も同じであって,ただ言葉に含まれる情報量が違うだけである.配偶者と言った場合それが男か女か分からないが,妻と言う言葉からはそれが女であると分かる.しかしこれらは同じものの別表現に過ぎない.でなければこの男は重婚罪だ.
光の場合も同じではないのか?光のエネルギーと運動量は E = |p|c という関係で表される.つまり光の運動量を,我々がエネルギーと呼んでいる量に換算すると,その絶対値に光速度をかけた値になると言うだけの話ではないのか?運動量には方向という情報があるが,エネルギーにはその情報がない.
こういうわけで「光は運動量とエネルギーを持っている」のではなく,光は運動量しか持っていないのではないか,と思うのである.そうなると,光というのはひょっとして運動量そのもののことであり,運動量と光を区別する必要さえないのではないだろうか,という気がしてくる.
すなわち「運動量=電磁波」?これは,私が「質量は運動量から出来ている」と言う時,それは「質量は光から出来ている」と言うのと同じ意味だということである.
スピンも持っていた
しかし,自然はもっと複雑なようである.なぜなら,光はこの他に「スピン」と呼ばれる量を持っているのだ.これは角運動量と同じ次元の物理量である.光のスピンとは何だろうか?私は力学の解説ページで,「角運動量は運動量で説明できる」と主張した.しかし,光が角運動量を持つとなると,これを運動量だけで説明するためには光がこれまた複数の(スピンのない)粒子,すなわち,運動量だけを持つ粒子から出来ているというややこしい仮説を持ち出さなくてはならない.この仮説自体は間違っているといわれる筋合いはないが,残念ながら現在のところ,このような粒子の性質を決めれるような段階にはない.「言葉だけなら何とでも言える」状況なのだ.
教訓:アイデアだけでは物理(科学)と言えない.栄誉はそれを実証する手段を示した者と,それを実証したものにのみ与えられるべきである.
・・・しかし・・・いずれ科学は実証も反証も出来ないところにたどり着くのではないだろうか?その時,その哲学は科学と呼べるであろうか?