LHC実験の良くある誤解への説明

割りといい加減なので、流すように聞いて下さい。


前書き

 この記事はもうひとつの似たような記事「LHC 実験とブラックホール」以前に書いていたものなのだけれど、書いたこと自体をすっかり忘れていて、 夢でも見たのだろうというつもりで再び最初から書き直したら、結局、似たものが二つできてしまった。  そのしばらく後になって発掘されたのだけれど、もう今更な感じがして、ずっと隠してあったのだった。  今読み返すとこっちの方が気持ちがこもっていて面白いし、2010 年になって LHC もトラブルを乗り越えて ようやく無事に動き出したようなので、 この機会にこちらの記事も出してしまおうというわけだ。

 今年は 2008 年。  いよいよ待ちに待った LHC 実験が開始される。  LHC というのは Large Hadron Collider の略で、 「ハドロンの、巨大な、正面衝突装置」ということだ。  ハドロンというのは・・・ああ、説明しだすとキリがないな・・・ ハドロンというのはクォークが集まって出来た粒子の事で、 陽子とか、中性子とか、π中間子とか・・・、他にも種類は一杯あるのだが、 今回は陽子を使う。  そこら辺の原子の中心にうじゃうじゃ入っている、何も珍しくないやつ。

 単独の陽子は別に苦労して取り出さなくてもいい。  水素の原子核というのは、単独の陽子だ。  うん、本当に何も珍しくない。

 陽子はプラスの電荷を持っているから、電場を掛ければ加速できる。  すごい速さにするために何度も何度も加速したいから、 真空のリングの中を何度も何度も回す。  でもリングのカーブを急にすると、電磁波が出てしまって、 せっかく加速したエネルギーがどんどん失われてしまう。  だから出来るだけ緩いカーブにしておかないといけない。  その結果、周の長さが 27 km という途方も無い大型装置になってしまったってわけだ。  無駄すぎるだって?  いや、そうじゃない。  とにかくロスが大きいんだ。  カーブが緩やかである事がそれほどまでに大切だってことだ。  え、直径? 3.14 で割ってくれ。

 で、光の速さ近くまで加速してから、ドカーン! とぶつける。  固定したターゲットの粒子にぶつけると、 そのまま一緒に勢い良く飛んで行ってしまって、エネルギーがもったいない。  運動量保存則ってやつがあるからだ。
 せっかく最先端の科学力と予算の限界にまで加速したのだから、 その運動エネルギーの全てを、粒子の生成反応に使って欲しいわけだ。  だから、陽子と陽子を互いに反対回しに加速しておいて、正面衝突させる。  collider ってのはそういう正面衝突方式の加速器という意味だ。

 陽子が最終的に持つエネルギーは何と、7 TeV だ。  正面衝突だから、合計 14 TeV のエネルギーになる。  え? TeV って何かって?  テラ・エレクトロン・ボルトの略だ。  科学者は気取って「テヴ」って読む。  テラって、あの、メガとかギガとかのその上のテラ。 10の12乗。  時々新聞記事なんかでは、14 兆電子ボルトとか書かれるんだけど、 あれ、ピンと来ないんだよね。  「それって 0 が幾つ?」って思ってしまう。  とにかくすごいエネルギーだ。

 え、エレクトロン・ボルトって何かって?  日本語では「電子ボルト」なんだけど、 電子が 1 V の電圧で加速される時のエネルギーが 1 eV ということ。  これは「エヴ」なんて読まない。  変な読み方するのはキロ以上だな。  keV、MeV、GeV、をそれぞれ「ケヴ」「メヴ」「ジェヴ」と読む。

 電子の電荷が 1.6 × 10-19 クーロンというものすごい小さな値だから、 1 eV っていうのは、1.6 × 10-19 J(ジュール)ってこと。  それならどうしてジュールって単位を使わないのかって?  そりゃ、こんな小さな数字、面倒臭くて使ってられるかい!ってんだ。

 ってことは、7 TeV ってのは、実は大した事なんかないんである。  たったの 1.1 × 10-6 J ってことだ。  100 ワット電球を 1 秒灯すのに使うエネルギーが 100 J だよ!?  電球ってば、すげー無駄遣い。  一つの粒子にエネルギーを集中させるのがどれだけ難しいかってことだ。

 科学者たちが、すごく危険なエネルギーの実験をしてると思ったろ?  オカルトの世界では、ムー大陸やアトランティス大陸や、 火星と木星の間にあった惑星なんかが、古代の加速器実験が原因で 滅んだことになっていたりもするもんな。  こんな微々たるエネルギーで、地球が爆発したりするもんか!

 でも 1 回の実験で加速させる陽子は 1 個きりじゃない。  1 個だけだと途中でどこかへ飛んで行って無くなっちゃうかも知れないし、 1 個と 1 個を狙い定めて正面衝突させるなんて、今の技術じゃとても無理。  だから大量の陽子を使う。  1 秒間に 800 万回だってさ。  合計 20 ワットくらい? すごいね。

 あ、でも、加速のために超伝導電磁石とか 1000 個以上使っているから、 施設全体で 20 ワット ってことじゃないよ。  それこそ、莫大な電力を使う必要がある。

 で、そろそろ、前書きの本題に入っていいかな?


今度こそ本当の前書き

 この加速器が完成して動き始めるのが、本当は 2007 年秋頃の予定だったのだけど、 色々と予定外のトラブルがあって、今年の夏頃まで遅れてしまった。  本格的に稼動する前に幾つかの予備実験をする予定があったらしいのだけど、 それらはすでにキャンセルされてしまった。

 この施設を使った実験は幾つも予定されていて、 スケジュールは一杯、後がつかえてるんだ。  その中には地味だけど、科学にとって重要な実験も色々とある。

 この装置を使った実験の開始は、物理関係者の多くにとっては一大イベントで、ずっとずっと待っていた。  スポーツにそれほど関心の無い私にとってはオリンピックなんかよりもはるかに楽しみだ。

 本当は 1990 年頃、アメリカで周長 87 km、20 TeVに加速した粒子どうしの 衝突によって 40 TeV の実験が出来る加速器を途中まで建設していたのだけど、 当初は 60億ドルの予定が、80億ドル(1 兆円)くらいに膨らむことが分かって、 議会からストップが掛かってしまった。  1994年頃だったっけ。 まぁ、事情は分からないでもないが、あの時は本当にがっかりした。  あの時日本も協力を求められたけれど、バブル崩壊でそれどころじゃなかったんだ。  科学の発展は、知力や技術の問題ではなく、金の問題が障害となってここで終点になるのか、と思ったものだ。  それから本当に、長い間待ったよ。

 えーっと、今回の LHC の建設費?  国際協力で、合計して、3500 億円程度だって。  本体の他にも追加で色々と掛かるんだけど。  ほら、職員の給料とか。  もう一国では賄えない。

 話がなかなか進まないな。  とにかく今年は、 2005 年にあった「国際物理年」イベントよりも、はるかに意味のある年なんだ。  しばらく静かに見守っていた私だが、 やっぱり、何らかの形で、この大イベントに参加したい。

 そんな大切な時に・・・訴訟を起こしやがった奴がいる!!  今回の実験の中に、ブラックホールを生成する実験が含まれており、 災害を生じる危険があるから、LHCの安全性を確認できるまでの間、 LHCの運用を禁止する仮処分命令を出してくれというのだ。

 ビデオの一時停止ボタンのようには行かないんだぞ。  止めている間にも金は掛かるし、 繊細な装置も沢山あって、メンテナンスを続けないと次々と故障していくし、 プロジェクト解散の危機だってある。  みんなスケジュールを調整して集まってるんだ。

 まぁ以前からも、この類の実験が引き金で地球が滅亡するかも知れないとかいう 恐怖を煽るテレビ番組なんかも放送されていた。  低レベルの娯楽番組くらいに受け止めて楽しんでいたのだが、 どうやら作った側は真面目に警告しているつもりであり、 見ている側は真面目に怖れていたようだ。

 この訴訟のニュースがきっかけで、いまや日本でも多くの人が関心を持ってくれている。  いや、正常な関心ならいいのだが、どうやら、 科学者のやろうとしていることを不安に思っている人の方が多いようだ。  ネットをあちこち見回った結果、明らかに情報不足のようであり、 いい加減な話も沢山流れている。  私の話もかなりイイカゲンだが、それよりさらにイイカゲンだった。

 ちょうどいい機会だから、微力ながらここに皆の不安を取り除くための記事を書いて、 実験が無事に行われるよう、協力している気分を味わわせてもらおうじゃないか。

 ふう。 やっと前書きが終わった・・・。  この後の本文の方が短いんじゃないか?


LHC実験はブラックホールを作ろうとしているわけではない。

 どうやら巷では、好奇心に取り憑かれた科学者たちが、危険も顧みずに ブラックホールを生成しようとしているように思われているようだ。  人というのは、百の真面目な話より、一の面白い話に飛びつく。

 世間は「説明不足だ」って科学者たちを責めるけど、 沢山の詳しい説明をしたって皆の耳まで届かないのだ。  これまで一生懸命説明した内容を、記者たちは記事にしてくれただろうか。

 いや、記者たちを弁護しておこう。  科学雑誌なんかではちゃんと記事になっていたのを私は目にした。  だけど大半の人はそんな雑誌のことを知りもしない。  まぁ私にとっても、読み易い楽しい記事とは言えなかったが。

 真面目な話を幾らしたところで予算は回してもらえない。  そこで気を利かせて、「そんな可能性もあるかもね。」と 夢のある話をしたつもりが、何だか、そっちばかりが注目されて行く。  それは主目的じゃないんだってば。


宇宙からはもっと何桁もエネルギーの高い粒子が来ている。

 そう、来ているのだけど、いつどこへ来てくれるか分からないのである。  素粒子の反応なんて確率的だから、 毎回同じ反応が起きるわけではない。  ちゃんと顕微鏡で待ち構えているところに 何百万回も来てくれないと、珍しい反応を見つけられないのである。  素粒子実験ってそんなもの。  もしこの実験でブラックホールが出来るというなら、 とっくに地球の大気内でも幾つも ブラックホールが出来ているだろう。  そいつ等がもし危険な存在だというのなら、 とっくに地球はメチャメチャだ。  つまり、もし出来ていても害はないということだ。


ブラックホールは蒸発する、かも知れない。

 それだけでも十分安心なのに、  ホーキング放射というものがあって、  小さいブラックホールは一瞬で蒸発してしまうという。  安全の上に、さらに安全を積み重ねるような理屈がちゃんとあるというわけだ。

 いや、実は蒸発するかどうかは本当は分かっていない。  だって確かめた事がないんだもの。  でも、割と信頼のある理論だ。

 何だか世間では、「ブラックホールは蒸発するから大丈夫」なんて 説明の方ばかりが広まってしまっているけど、 その話は、さらに安心してもらうためのおまけに過ぎないんだよ。

 「もし万が一、蒸発しなかったらどうしてくれる!」みたいな議論ばかり。  別に蒸発しなくたって構わないよ。  さっきの話を読んでくれ。


そもそもブラックホールが出来る可能性は低い。

 ブラックホールなんて、そんな簡単に発生しないんだ。  太陽の何倍もの質量がないと。

 でも、リサ・ランドール氏なんかで有名な余剰次元理論なんかがもし正しかったなら・・・ 今回の実験のようなかなり低いエネルギーでも・・・(そうなんだ。世界最高だけど、まだまだ低いんだよ) ブラックホールがひょっとしたら出来るかも知れない。  まだエネルギーが低いので、 出来なかったとしても理論が間違っていたとはまだ言えない。


ブラックホールは全てを吸い込まない。

 例えば、そこにある石ころは、万有引力があるから、私を引っ張っている。  その石ころが、突如ブラックホールになったとしても、 同じくらいの力で私を引っ張ってくれる。  つまり、近付いても全然平気だということ。  強烈な重力なんて発生しない。


ブラックホールは肥え太らない。

 ブラックホールの大きさは、 シュバルツシルト半径が目安となる。  陽子程度の質量が幾つか集まって ブラックホールになったとしてみよう。  陽子の質量は 1.67 × 10-27 kg だから、

 r = 2GM/c2 = 2 × 6.67 × 10-11 × 1.67 × 10-27/(3 × 108)2
 = 1.5 × 10-54 m

程度となる。  これがどれだけ小さいことか!  原子核でさえ 10-15 m 程度である。

 そこらの物質に次々とぶつかりながら、吸収しながら 際限なく成長するなんてことが全く起こり得ないことが分かる。  物質なんてスカスカなんだから、 何も反応しないで通り抜けてしまう。


ブラックホールが電荷を持ってたら?

 いいことに気が付いた。  確かに他の電荷を引き寄せてブラックホールは大きくなる可能性がある。  だけど、1 個吸収したら、その時点ですぐに中和されるではないか。


ブラックホールが小さくても、物質が大きいんだからさあ・・・。

 物質の方がブラックホールの上を通過してしまうって可能性ね。  これは難しいな。  確かに物質はスカスカだけど、たまたま原子核が ブラックホールのあるところを通過したら・・・?  クォークとクォークの間をもすり抜けるって言えるのかな?  そんなに興味があるなら、勉強してくれ。


星が吸い込まれるにも気の遠くなる時間が掛かる。

 福江純氏の論文を見つけたからさ、これ読んでよ。  10 億トンのブラックホールが地球にあっても、 全部吸い込まれるのに一千万年から一億年くらいかかるってさ。

http://quasar.cc.osaka-kyoiku.ac.jp/~fukue/SF/00sfm1.pdf


でもさ、未知の現象が起きたらどうするの?

 うう、この点ばかりは、突つかれると科学者は弱い。  出来れば未知の現象は起きて欲しいもんなぁ。

 中立な立場ではいられないよ。


で、未知の現象で宇宙が破滅しちゃったり・・・。

 そんなに心配なら・・・うーん、まぁ、これくらいにしとこ!


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