S行列

S は散乱の S。 S は Scattering の S。

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こんな話で一回分使っていいのかな

 ハミルトニアンに相互作用項を入れたことで一体何が計算できるようになるのか? 具体的な計算内容を説明する前に、基礎的なところに戻って考えを整理しなくてはならない。おそらく 2 回分くらいの話で終わると思うので、ちょっとがまんして付き合ってほしい。

 シュレーディンガー描像では状態が時間経過によって変化していくのだった。あまり一般的な話にまで広げず、時間に依存しないハミルトニアンを想定しよう。今後の話にはそれで十分だからである。
\[ \begin{align*} \hat{H} \ =\ \hat{H}\sub{0} \ +\ \hat{H}_I \end{align*} \]
 \( \hat{H}\sub{0} \)が自由粒子のハミルトニアンで、\( \hat{H}_I \)が相互作用項である。初期状態\( \ket{\psi\sub{0}} \)からの状態変化は次のように表される。
\[ \begin{align*} \ket{\psi(t)} \ =\ e^{-i\hat{H} t} \, \ket{\psi\sub{0}} \end{align*} \]
 このような変化が起こった後に状態\( \ket{\phi} \)として観測される確率を求めたいとする。その確率振幅は、次のように表される。
\[ \begin{align*} \langle \phi|\psi(t) \rangle \end{align*} \]
 つまり、こうである。
\[ \begin{align*} \langle \phi|e^{-i\hat{H} t} | \psi\sub{0} \rangle \end{align*} \]
 ところがこれだと、相互作用がまったく無くて状態が元のままだったとしても
\[ \begin{align*} \langle \psi\sub{0}| e^{-i\hat{H}\sub{0} t} | \psi\sub{0} \rangle \end{align*} \]
のような計算が行われ、何らかの位相の変化分\( e^{i\theta} \)として結果に出てしまう。そこで、それを打ち消すために、次のような小細工をしておく。
\[ \begin{align*} \langle \phi|e^{i\hat{H}\sub{0} t} \, e^{-i\hat{H} t} | \psi\sub{0} \rangle \end{align*} \]
 こうすれば、相互作用がないときに限っては、同じ状態のままでいる確率振幅は 1 のままである。

 位相が変わってしまうくらいのことをいちいち気にしなくてもいいのではないかと思うかも知れない。これは「確率振幅」なのであって、確率を計算するときにはこの絶対値の 2 乗を計算するのだから、位相の違いは消えてしまうだろう。実にその通りであって、本当の目的はもう少し先にある。この後で相互作用描像へと見方を切り替えるときに出てくる式をスムーズに受け入れることができるように、ここで一歩先に解釈を行っているのである。

 この「小細工込みの状態変化」を表す演算子を次のような記号で定義しておこう。
\[ \begin{align*} \hat{S} \ \equiv\ e^{i\hat{H}\sub{0} t} \, e^{-i\hat{H} t} \end{align*} \]
 これを「S行列」あるいは「散乱行列」と呼ぶ。なぜ行列と呼ばれるかと言えば、演算子というのは行列のようなものだからである。

 同じ繰り返しだが、記号を変えてまとめ直そう。粒子どうしの衝突実験の結果として散乱してきた粒子の状態が元の\( \ket{\alpha} \)から状態\( \ket{\beta} \)へと変化している確率の、「小細工込みの確率振幅」は次のように表せる。
\[ \begin{align*} S_{\beta\alpha} \ =\ \bra{\beta} \hat{S} \ket{\alpha} \end{align*} \]
 この\( S_{\beta\alpha} \)というのが行列の成分のようなものだとイメージしているのである。本当は、状態\( \ket{\alpha} \)\( \ket{\beta} \)というのは無数に連続的にあるものなので実際の行列としては書き表せないけれども、この記法のせいで行列と呼ぶわけである。

 今回の話は「こういう小細工をしても特に問題はないですよね?」という確認にすぎないのである。


漸近場

 この、後の方の話で辻褄を合わせるために導入された「S行列」というものに、いかにももっともらしい理屈を与えるのが「漸近場」という概念である。もしもこれがよく分からなくても気にする必要はない。私はこれが場の理論の根幹に係る重要な話に違いないと信じ込んでしまい、長い時間を無駄に費やした。笑い飛ばして先に進むくらいがちょうどよい。

 詳しい話は教科書で調べてもらうとして、かなり雑に説明しておこう。

 素粒子論を検証するための実験は衝突実験である。粒子どうしが衝突するのはほぼ一瞬であって、粒子同士に相互作用が働くのも一瞬である。それに比べたら、衝突を起こす前の状態というのは無限の過去のことであり、衝突後の粒子を観測するのは無限の未来のことであると言える。この、無限の過去と未来においては相互作用は働いていないのだから、自由粒子の場として表せるであろう。無限の過去と未来において自由粒子に漸近するような場だから「漸近場」と呼んでいるのである。

 教科書ではこの自由粒子の場のことを「自由なハイゼンベルク場」と表現していると思う。これについては自分は後で説明したいので今はあまり言いたくはないのだが、今まで一生懸命計算して求めてきた自由粒子の場の演算子は、実は「ハイゼンベルク描像」における演算子だったのである。はい、これは後で説明するから、忘れて忘れて!

 で、無限の過去の状態というのは入射粒子の状態のことだから\( \ket{\alpha ,in} \)と表して、無限の未来の状態というのは衝突後に散乱してくる粒子の状態のことだから\( \ket{\beta , out} \)と表すことにしよう。S行列というのはこの前後の状態を結びつける量として定義したいので、
\[ \begin{align*} S_{\beta\alpha} \ =\ \langle \beta,out | \alpha, in \rangle \tag{1} \end{align*} \]
という式によって行列成分が求められるようにしたいのである。ところが演算子\( \hat{S} \)の行列成分というのは、いや、どんな演算子でもそうなのだが、異なる時間の状態によって定義されるものではなく、同じ時刻の状態を使う必要がある。例えばどちらも入射粒子の状態を使って次のような形式で表される。
\[ \begin{align*} S_{\beta\alpha} \ =\ \bra{\beta, in} \hat{S} \ket{\alpha, in} \tag{2} \end{align*} \]
 ということは、演算子\( \hat{S} \)というのはどのような性質を持つ演算子として定義したらいいだろうか?上の (1) 式と (2) 式を比較すれば、
\[ \begin{align*} \bra{\beta,out} \ =\ \bra{\beta, in} \hat{S} \end{align*} \]
という関係を成り立たせる演算子でないといけないということが分かるだろう。

 この関係式と、場の演算子\( \hat{\phi}(\Vec{x}) \)がハイゼンベルク描像の演算子であること、すなわち、ハイゼンベルク描像では演算子の方が時間変化するのだと解釈するということを利用して式変形をしてやると、「\( \beta = \alpha \)のときには\( \hat{S} = 1 \)になるようにしたい」などという人為的で「みっともない」要求を隠したまま\( \hat{S} \)が先ほど定義したのと同じ形に定まるのである。

 なんだい?それだけのことかい?そう、それだけのことなんよ。でもうまいこと考えたものだよなと感心するので教科書には書いておきたくなるわけだ。