長さを測るということ

そして同時とは何か。

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長さの測り方

 物の長さを知ろうと思ったら、人はその物体の一方の端と反対側の端の座標を「同時に」測らなくてはならない。それが長さを測るという行為の本質だ。それ以外の方法があるかどうかを考えてみるといい。他の物体と並べて比較するという方法がありそうだが、これもものさしを持ってきて並べるのと同じことであって、結局は同じことをしているに過ぎない。

 長さを測る対象が止まっている場合にはこれを実行するのは簡単である。両端の座標がずっと変化していないことを確認しつつ、その座標を読めばいい。しかし相手が動いている場合にその長さを測るのは非常に難しいことだ。なぜなら人は二つの場所に同時に存在することは当然出来ないし、二つの場所の出来事を同時に知ることさえ出来ないのだ。
離れた場所にテレビカメラを付けておいて、二ヶ所以上を同時に見ることが出来るかも知れない。しかしその並べられたカメラの映像は本当に同時なのだろうか?映像が届くまでには時間がかかる。我々はその映像が「いつ」のものなのか逆算しなければならない。

 映像が電波に乗って光速で届くとしよう。光速は秒速 30 万 km だ。よって 30 万 km 離れたところに設置されたカメラの映像を見る時、我々は「これは 1 秒前の映像だな」と言うだろう。ちょっと待て!それで解決だろうか?勝手にそう決めただけではないのか?どうして離れた場所の時間が分かるのだ?


同時を信じる儚さ

 離れた場所に同じ時が流れているなんてことは人間が勝手に信じているに過ぎない。遠く離れた恋人同士が「同じ時間に夜空を見上げてお互いのことを考えましょう」なんて約束したとして、自己満足以外にどれほどの意味があるだろうか。お互いに離れているのだから、その「同時」と呼んでいる瞬間にはお互いに何の影響も及ぼし合うことが出来ないのだ。つまり、相手が本当に約束を守って夜空を見上げているかどうかは、その瞬間には確認のしようがないのだ。

(こんな話をしてもあまり実感が湧かないかもしれない。電話を使えば「ほぼ同時に」確認できてしまうではないか。)

 しかしそれでは社会が成り立たない。なんとか辻褄が合うように同時という概念を定めることにした。何か一定の速度を持つものを用意して、それがどれだけの時間をかけて移動したかで距離が分かる。ここから逆算すれば、情報が何秒かけて手元に届いたかが分かる。つまり、何秒前の情報であるかを知ることが出来る。

 そう決めておけばどこにも矛盾が起きないはずだった。

 実際、馬車や徒歩を考えている場合は何の問題もない。このまま科学技術が進歩して行けばお互いを隔てた時間差は縮まり、やがてほとんど同時に行き来できるようになるだろうと思っていた。宇宙のどこにいても相手が「同時」に何かをしているかどうかを確かめ合うことができるはずであった。


上限速度

 ところが何と、お互いの間を結ぶ速度には上限があったのだ。そしてその速度は、どんな立場で見ても同じ。動いている人にも止まっている人にも同じ。そもそも上限があるというのはそういうものだ。もし立場によって上限速度に違いがあればそれは上限速度ではあり得ない。

 そんな不思議な速度があるなら、先ほどの「同時」の考えは、立場によって変わってしまうことになるだろう。その速度に近づけば近づくほど、その影響は大きく出る。ある人にとって同時であると思っていたものが、別の人にとっては同時ではない。そもそも「同時」なんていうのは遠く離れた点と自分のいる点との関係を人為的に結びつけようとしただけのものだったのだ。

 そんな危うい概念を使って、人は物の長さを測る。他にいい方法はなく、そうせざるを得ないのだ。ある人は「両端を同時に測った」と主張する。しかし別の人は「あなたが測定に使った両端のデータはそれぞれ別の時間に測ったものです」と主張する。

 果たして運動する物体の長さは本当に縮んでいるのだろうか。それとも単なるデータの読み間違えだろうか?

 人は同時に両端を見ることは出来ない。ただ、しばらく後で手に入れた情報を一つに合わせて分析すると、物体が縮んだと推論せざるを得ない結果になっているというだけである。

 誰が本当の姿を見ているかなんてことは誰にも言えない。我々は自分のいる一点のみを手探りで確認しながら移動して、全体を推測するだけの哀れな存在なのだ。