遅延選択量子消しゴム実験

とても不思議に見えるが、落ち着いて考えれば当たり前とも言える。

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量子消しゴムの意味

 遅延選択量子消しゴム実験というのは1982年に提案されていた実験であり、1999年に次の論文で結果が報告されている。
Kim, Yoon-Ho; R. Yu; S.P. Kulik; Y.H. Shih; Marlan O. Scully (2000).
   "A Delayed Choice Quantum Eraser". Physical Review Letters. 84: 1-5.
arXiv:quant-ph/9903047
1999年3月にネット上のarXivに投稿され、2000年に正式な論文として出版されたということである。
 「量子消しゴム」という言葉が専門用語っぽくないのだが、これは quantum eraser の直訳である。本来は「量子消去を試みる実験装置」といった意味合いであろうが、誤訳とも言えない。消しゴムや黒板消しをイメージさせる軽い言葉遊びも含んでいるからである。人目を引きやすいこともあって一般向けの解説ではこの訳が使われることが多い。専門的な文書ではもっと地味に「量子消去」という訳が使われているが、内容を知れば逆に大袈裟すぎる気もする。

 今から紹介する実験は「量子消しゴム」を「遅延選択」させるものであるから、いきなり二つの要素が含まれてしまっている。量子消去を行うか行わないかの選択を、光子の通過の後で決めましょうという実験なのである。

 というわけで、まずは「量子消去」とは何なのかというところを軽く説明しておこう。二重スリットを使った干渉実験では、粒子がどちらのスリットを通ったかを特定するような観測を行うとその時点で波の性質が消えてしまい、干渉が起こらなくなってしまう。ところが、観測そのものが問題なのではないのではないかという可能性が出て来た。観測を行った後でその結果が分からないように消してしまうような仕組みを導入すると、なんと、干渉縞が復活させられることがあるというのである。一度記録したはずの観測結果を、あたかも消しゴムで消すように、「分からないようにする」「なかったことにする」というような意味である。

 自然の不思議な法則を利用して何かを消滅させるような大袈裟な実験ではなく、人間側の都合で「ごめん、今の観測結果をなかったことにして?」と消去する実験である。消去は自然が行うのではなく、人間だということだ。

 「量子消しゴム」という訳がそれほど的外れではないことが分かってきただろう。


実験内容

 いきなり実験の構成図を見せられると驚いてしまうかも知れないが、見ながら説明を読んだ方が分かりやすいので、とりあえず覚悟して眺めてみて欲しい。

 左側には二重スリットがある。ここに左側からレーザー光を照射する。図ではかなり大きく書いてあるが実際はとても狭い間隔の二つの穴である。この穴を通過した後の光はどちらのスリットを通過してきたのか判別が付かない、というのが普通の二重スリット実験ではあるが、今回はひと工夫がある。二重スリットの直後に β-BBO と呼ばれる透明な結晶を設置しておくのである。

 BBO というのは「メタホウ酸バリウム」の結晶で、化学式が BaB2O4 だから通称 BBO である。BBO には結晶構造が複数あり、α相、β相と区別される。どちらも複屈折という光学的に面白い性質を持つので実験によく使われるが、β-BBO にはさらに面白い性質がある。ここにレーザー光を照射すると非線形光学的な現象によって二つの光子を同時発生するのである。入射した一粒の光子が持っていたエネルギーをちょうど半分ずつ分け合った光子である。波長が伸びて光の色も変わるわけだ。この現象は自発パラメトリックダウンコンバージョン(SPDC)と呼ばれている。

 このとき発生する一対の光は一方が縦偏光、一方が横偏光になっているが、複屈折性によって二つの方向に分かれて出てくる。複屈折というのは偏光の向きによって結晶中を伝わる光の速さが違うために起こるもので、屈折率がそれぞれ違うので、それぞれが違う方向へ出ていくのである。実は BBO だけではこんなにしっかりと方向を分けることができないので、この実験では BBO の直後にさらにグラン-トムソン-プリズムと呼ばれる別の複屈折プリズムを置いて、それぞれをしっかり別方向へと飛ばしているが、この図には描いていない。

 つまり二重スリットのそれぞれの穴を通った光をさらにそれぞれに二つに分けて、コピーのようなものを作り、それぞれを別の用途に使おうというのである。
注: BBO を使って同時発生させた光子はエンタングル光という「双子の光子」として利用されることが多い。 この実験では偏光の違いによってはっきりコースを分けてしまっているので、 一方の偏光を測定することで初めて他方の偏光が分かるというような、 量子情報分野でよく利用される性質については失ってしまっている。
 図の上の方へと飛んでいった光はレンズを使って再び集められて、D0 と書かれた検出器のところに干渉縞を作るかどうかが調べられる。

 下の方へ飛んでいった光はプリズムを使って方向をコントロールされ、ハーフミラーやミラーを使って何やら複雑なコースを取らされる。その意図をこれから説明しよう。

 もし D3 や D4 と書かれた検出器で光子を受け取ることがあれば、光子が二重スリットのどちらを通ったのかが特定されることになる。ハーフミラーを使っているので 50% の確率でこのようになるだろう。

 では残りの 50% の確率では何が起こるかと言うと、D1 や D2 のいずれかで光子を検出することになるが、どちらに到達したとしてもスリットの上側を通ってきた光とスリットの下側を通ってきた光が同時に重なり合うように作られているので、どちらを通ってきたかを特定することが出来ないのである。

 いや、単に分からないというのではない。この実験では実に巧妙に、精密にセッティングがされており、D1 や D2 には光は二つのスリットの両方のコースで同時に届いたのだと言えるようになっている。つまり、こちらへは光は波として到達するのである。なぜそんなことが言えるかと言うと、これは実に職人技なのだが、波長レベルの精度での微調整が行われており、D1 には二つの波が強め合うように、D2 には二つの波が弱め合うように配置されているのである。つまり、D1 には必ず光は来るが、D2 には光が来ないようになっている。これは波の性質がないと出来ない芸当だ。

 ところがこの実験を実際にやってみるとD1 にも D2 にも光は来てしまう。なぜかというと、BBO から出てくる光の位相がランダムで、完全に反転して出てくる場合もあるからである。BBO の内部で起きる非線形光学現象は、入射光がそのまま分裂するような単純なものではない。入射光によって揺さぶられた結晶内の電子が二次的に光を放ち、それが結晶内で反射するなどする相互作用を利用して、エネルギーや運動量を保存する形での光を新たに生み出すものである。位相がずれたり反転することもありうるのである。二つのスリットを通った光がどちらも BBO で同位相になれば意図通りのことが起きるが、逆位相に近くなっていれば意図とは逆のことが起きるのである。

 さて、この実験のどこが「遅延選択」なのかというと、光のコースを特定する実験と特定できない実験の二つを、光がスリットを通過した後にランダムに切り替えて行わせているところである。本来なら人間がランダムに選択すべきなのだが、ハーフミラーを利用してその作業を自動化したのである。


実験結果

 さて、レーザー光の出力を思い切り下げて、一度に一つの光子だけがこの装置に入るようにしたらどんな結果になるだろうか?
 双子の光子が発生する現象が起きる確率は小さいため、 1個の入射光子に対して毎回確実に2個のペアが生まれるわけではない。 だからレーザー光の出力をそれほど下げなくても実現できるのである。
 今までの説明から想像がつく通り、D1 ~ D4 の検出器には均等にランダムに検出信号が入るだろう。そして BBO から出てくる光の位相がランダムなので、D0 のスクリーンでは位相が強め合う場合も弱め合う場合もごちゃまぜになって、多数の光子の到達位置を集計してみたところで干渉縞は現れないだろう。これだけでは何の面白みもない結果だ。

 ところがこの実験にはまだ説明していないもうひと工夫がされている。D0 のスクリーンに到達した光子の位置の検出と同時に、それとペアとして生まれた光子が D1 ~ D4 のどこで検出されたかをナノ秒レベルで特定しているのである。D0 へ向かう経路の方が 2.5m 長い配置になっているので約 8 ナノ秒の差で検出されるらしい。実際には D0 のスクリーンに到達する全ての光子の位置を測るのは難しいので、D0 の検出器の前に細い窓を付けたものをステッピングモータで左右にスライドさせながら、どの位置にどれくらいの頻度で光子が検出されるかのデータを蓄積するのである。

 その結果として何が分かったか。例えば、D3 で検出されたときのデータだけを集めてスクリーン上での光子の検出がどのように分布したかをグラフにしてやると、まるでそこに最初から一つの粒子しか飛んでこなかったような、中心付近にピークを持つ分布になる。D4 の場合も同じ。

 ところが、D1 の場合を調べてやるとちゃんと干渉が起きていたかのような分布になっているのである。D2 の場合にも同様に干渉は起きているようだが分布が逆になる。D2 で検出される確率が上がるのは片方の位相が逆転しているときなのだからそれ自体は不思議ではない。

 こんな無茶な実験をしたにもかかわらず、干渉は起きていたのだ。スリットのどちらを通ったかを特定できるような観測結果を得たときには単独の粒子のように振る舞っており、それを分からないように消してしまうような観測をしたときには干渉縞が作られるように振る舞っていたのである。全体を集めれば実際に干渉が起きていたわけではないような振る舞いをしていたのだが、後から集計したデータと突き合わせればそうなっていたことが分かるわけだ。

 光子のペアの一方は他方の光子の観測結果がどうなるかをどうやって知ったというのだろう。知った上で行動を変えたのだろうか?だめだ、不思議すぎてこの先の説明ができない。


解釈をしてみる

 落ち着いて考え直してみよう。量子力学としてはどう解釈するのが標準的だっただろうか。前回の記事の中で、波として伝わってきているというイメージで考えろと言ったのは私自身だった。粒子として振る舞うのは観測される瞬間だけだとも言った。

 レーザー光源から放たれた瞬間から、電磁波のような何かが確率の波として伝わってきている。スリットの間の壁に当たって通り抜けられなかった可能性、一方の穴から通過した可能性、他方の穴から通過した可能性。それら全てが、粒子としてどこかで観測される瞬間まで広がり続ける。粒子が観測されればその全てが消える。

 スリットのそれぞれの隙間を通り抜けた可能性の波はそれぞれのコースを進み、それぞれが二つの光子を発生させる可能性へと引き継がれる。この段階ではまだスリットの一方を通った波と他方を通った波との干渉は起きていない。お互いに離れたコースを通過しているから干渉を起こしようがないのである。

 さらに進んで最初のハーフミラーに到達するが、そこで可能性の波は大きく二つに分かれる。つまり、ハーフミラーを透過した可能性と反射された可能性である。しばらくはどちらも同時に進むだろう。

 この辺りで、もし D3 で検出される結果になれば、我々は幾多の可能性の中から一つを選んだのである。我々はそれを選んだ後の世界にいることになる。この光子とペアになっている光子が D0 へと向かっていることが確実な世界を観測したのである。つまり、他方のスリットを通った可能性は今や完全に消え失せ、単独で D0 へと向かう。そして干渉を起こすことなく観測される。

 こうではなく、別の結果になる可能性もあった。D3 や D4 で検出される頃合いを過ぎてもそちらで検出されなかったとしたら、我々は光子が D1 や D2 で観測される世界を引き当てたことになる。スリットのそれぞれを通ってきた可能性の波はまだ残っており、D0 辺りで合流し、干渉を起こす。

 このように量子力学の標準的な考え方を使えば説明に困るところがない。いつもの量子力学であり、あっけないくらいだ。少しばかり不思議なのはペアで生成された光子の状態である。それらについての確率の波は不可分で一体であり、互いにどんなに距離が離れていても、一方を観測して何らかの結果を得るということは他方を観測したことと全く同じだと言えるのである。先ほど注意書きとして、今回のペアの光子はエンタングル光としてよく利用される重要な性質を失っていると書いたが、それでも広い意味での量子もつれ状態(エンタングル状態)にあるとは言えるだろう。

 どれか一つの可能性を観測した瞬間に他の全ての可能性の波が消えてしまうというのが不自然すぎると感じるのなら、多世界解釈的なイメージが助けになるだろう。自分は観測によって一つの可能性と結びついてしまって他の可能性を認識できなくなっただけであり、他の可能性を引き当てた別の自分との重ね合わせ状態に移行したのである。そういう解釈も可能だと言うだけで、実際にそうなっているかどうかを確認することはまだできていない。

 従来の量子力学の解釈の範囲で説明できてしまうのならば、この実験の意義はどこにあるだろうか?二重スリット実験で粒子の経路を確認するような観測を行うと干渉が起こらなくなるのは、観測という行為によって状態が乱されてしまうからだと、我々は古くからそういう説明をしてきた。ところが本質はそこではなかったのである。今回の実験では、観測を行うことで干渉が消えてしまったように見える。しかし後に得られる情報次第で、干渉が起こっていた事実を掘り起こすことができるというのである。

 量子消しゴム実験として有名なものがもう一つあるので、次回はそれも説明しておこう。