質量は「運動量」と等価である

普通の教科書では、
質量は「エネルギー」と等価である、と説明します。

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エネルギー概念の放逐

 静止している質量\( M \)のエネルギーは\( E = Mc^2 \)で表すことが出来る。ところが、その物体の内部ではさまざまな質量\( m \)を持った分子がさまざまな速度で激しく運動しており、その分子の静止質量や運動エネルギーの総量がその物体全体の質量を構成しているのである。この状況を式で書き表すならば、
\[ \begin{align*} Mc^2 = \sum \sqrt{ (mc^2)^2 + (pc)^2 } \end{align*} \]
と表せる。エネルギーの 2 乗のまま和を取ることが出来たならもっとすっきりした式にできたのだが、個々の分子のエネルギーを普通に足し合わさなければならないのでどうしても 2 乗を外してルートを導入せざるを得なかった。それでもこの後の議論には差し支えない。

 さて、この式を見ると、光速度\( c \)ばかりが結構目立つので思わず両辺を\( c \)で割ってしまいたくなる。すると、

\[ \begin{align*} Mc \ =\ \sum \sqrt{ (mc)^2 + p^2 } \end{align*} \]
と書ける。これが力学の記事を書いている頃から私が考えをめぐらせていた式である。実はルートの付かないすっきりとした形式、
\[ \begin{align*} (Mc)^2 \ =\ (mc)^2 + p^2 \end{align*} \]
に持って行けることを期待していたのであるが、多数の粒子による重心系に話を限る以上、厳密さを大切にして上側のような表現にする必要があった。

 これは有名な\( E=mc^2 \)の公式と違って、両辺が運動量の次元(の 2 乗)になっている。つまり、この式の中には運動量しか出てこないのである。前から私が言っていたように、これがこれから相対論からもエネルギーの概念を放逐してやろうという野望を実現する手がかりとなる。私はエネルギーは人工的概念であって、実在を表すものではないと考えているので、これを放っておくのは気味が悪いのである。そして私は運動量こそ宇宙に実在する全てではないかとさえ考えているので、運動量が式に残ることについては大歓迎である。

 この式の中の\( mc \)という部分、もっと正確に言えば、運動量が 0 であるときに\( \sum \sqrt{(mc)^2} \)と書ける部分を、静止エネルギーという言葉に倣って(冗談めかして)「静止運動量」とでも呼ぶことにしよう。静止しているのに運動量とは妙な感じではあるが、私の主張は「質量は運動量のかたまりである」ということである。

 力学の解説の中のエネルギーの説明の初めの方で、「なぜエネルギー保存を使わなければならないのだろう?『運動量の 2 乗の保存法則』というのはダメだろうか?」ということをしゃべっていたのを思い出すが、ここにきてそれに似たことが出来ることが分かってくる。当時うまく行かなかったのは、ニュートン力学の範囲で考えていたからであり、保存量を作ろうとする時にどうしても質量を入れないとうまくいかなかったのは、ニュートン力学における「運動エネルギー」が相対論的エネルギー保存の式の近似表現に過ぎなかったからなのである。質量でさえ運動量から出来ている、という考えを導入すればエネルギー保存の代わりに『運動量の 2 乗和の保存法則』というものが作れそうである。ただし、これは意味をしっかり考えて使わないといけないので、下手に使うと誤解を招きやすそうである。

 「質量はエネルギーと等価である」というフレーズは有名であり、この表現の方が確かに間違いも誤解もないのであるが、本当に意味が分かって使っているだろうか?そればかりにこだわって他の見方が出来なくなってはいないだろうか?


質量の入れ子構造

 このような式を眺めていると割と多くの人が思いつくことではあるが、小さな質量の集まりが運動して大きな静止質量を作り、さらにその静止質量が運動することによってさらに大きな静止質量を形作るような、「入れ子構造」が成り立っているのではないかと考えたくなる。

 もしこのような関係が成り立っているのならば、我々の身の回りの物体の質量は小さな質量を持つ粒子が集まって運動することによって出来ているのであり(これは事実だ)、さらに、その小さな質量を持つ粒子の内部ではもっと小さな要素が運動しており、その結果として粒子の静止質量が作られている・・・。このような繰り返しによって、この構造はずーっと微細な階層へと続いていくのではないだろうか。

 しかし、この構造はどこまでも無限に続くようなものではなく、比較的浅い段階で、終わりにたどり着くことが考えられる。それは、ついには質量を持たないものが内部で運動しており、全体として運動量がつりあっているために全体として静止質量だとみなせる状態である。

 ニュートリノでさえ質量を持つということが分かった現代、質量を持たない物の候補はそう多くはない。

 例えば・・光、そう、光だ。「物質は光から出来ている!」ああ、なんて甘美な響きなのだろう。

 しかしここで突っ走らないように気を付けなくてはならない。一つ間違えると、トンデモ街道まっしぐらだ。

 そこでひとまず落ち着くために、話を一旦ここで区切ることにしよう。次からのトピックでは物質が究極的には光から出来ているのではないか、というモデルについての面白さを語ったり、弱点を検証したりしようと思う。


トンデモ候補の人々へ

 ここに出てきた「静止運動量」などと言う言葉を他で使わないことをお勧めする。これは私の造語であって、本来の運動量とは多少意味が異なる。この議論が正統な科学者たちに与える印象をきちんと理解しないで使うととんだ痛い目を見ることになるだろう。私について言えば、私は「分かっていてやっている人」なので、「と学会」による「トンデモの定義」により「トンデモ」には当たらないのだ。

種明かし
・・・黙っておいて成り行きを見守って楽しむつもりだったが、トンデモ候補さんたちが人生の貴重な時間を無駄にすることなくきちんと納得してもらえるようにちゃんと説明しておこう。
私の造語した「静止運動量」と普通の「運動量」の一番大きな違いは普通の運動量には方向があるが、これにはないということである。さらに言えば、これは全エネルギーを\( c \)で割ったものに過ぎず、表現を変えただけであり、現代物理学の域を出てはいないのである。

 ここでの主張を分かりやすく要約すれば次のようになる。

 光の運動量とエネルギーの間には簡単な比例関係\( E = |\Vec{p}|c \)が成り立つ。よって、全エネルギーを光レベルにまで分解して考えれば、エネルギー保存も運動量保存も同じ意味になるではないか。

 こういうことを考えて行って、何か面白い発想につながらないかなぁ。